星の翼

前編



 世界は幾度となく死に、世界は幾度となく生まれる。


■ □ ■ 

 乾いた空気を揺るがす馬蹄の音。馬を駆り武器を手に非力な獲物を追い詰めいたぶる怒鳴り声と煽り声。他人の恐怖は最高の御馳走。威嚇は蚊の羽音ほどにも取らず、呪いの言葉も犬が噛む程度の影響にさえならないのだろう、下品に興る笑い声。
 最悪な血の表象はじりじりと現実へと近付き、しかし、

「ファイヤー!!」
 
 突如別方向から現れた唱声が、その傍若無人を炎天の下にねじ伏せた。




「ねぇ、大丈夫?」

 降ってきた声にラスアラスが顔を上げると、覗き込んだ少女が手を差伸べていた。
 こんな――街からも街道からも離れ、群れを成さない木々だけが立つ、他人を食い物にする無法者がはびこる荒々しい平原には不釣り合いな女の子。恐らくこの地方の人間ではないのだろうが、茶色の髪を高く結び青を基とした服に白いタンクトップ、そして服と同色の胸当てという軽装。心配げな表情の中で、思わず見入ってしまう金無垢の瞳。
 魔導師、なのだろう。彼女の肩越しから見える地面で黒こげになって転がっている強靱な男達と、彼らの馬を改めて見ればそう認識できる。

「えっと、」

 足下では黄色い体の生き物がラスアラスを見上げている。
 耳は長いが二足歩行をしている辺り兎ではなさそうだ。だいたい兎の口はここまで大きくない。
 彼女は眉を寄せ、しかしいつの間にか出された手を取っていることに気付き少女に目線を合わせた。
 戸惑いを口元に過ぎらせた後。

「あの、どこかでお会いしましたっけ?」

 ふと浮かんだ疑問を口にする。
 と少女はにっこりと人懐っこく笑った。

「ううん、初対面だよ」

 

 
「ボクはアルル・ナジャ。こっちのはカーくん。本当の名前はカーバンクルっていうんだけどね」
「ぐー!」
「まぁ、可愛らしいですね」

 肩の上で紹介された生き物が短い前足(というか手かもしれない)を伸ばしてくる。
 ラスアラスは頬を緩ませてちょんとつまみ、握手を交わした。普段、物静かな双眸が愛玩を愛でる色に変わり、微笑みに嬉しい花が咲いている。
 白い石の敷かれた街道を歩く女二人と動物一匹、さっき出逢ったばかりなのにすっかり和みモード。

「私はラスアラスといいます。神官をしてまして、南の神殿へと旅の道中だったのですが……」

 ラスアラスは銀杖を持ち替え、転ばないように注意しながら葦葉色ローブの腰を小さく折った。長い黒髪を揺らし焦茶色の瞳に年下のようにも見える少女を映す。

「そうだったんだ? 盗賊に襲われるなんて災難だったね。女の子の一人旅なんて危ないよ」
「それはアルルさんも同じ……と言いたい所ですが、お強いのですね。私も幼い頃より魔導を嗜んではいますが、アルルさんには遠く及びません。先ほども危ない所でした」
「威力ならそこそこね〜。でもまだまだ制御が足りないみたいで、修行中! いざというときはカーくんもいるし。……神殿って、なにかあるの?」

 苦い笑いを浮かべたアルルの顔が一変、好奇心に輝く。
 神殿やら遺跡やらという旧時を想わせるものに大いにときめく人種、魔導師の本能が騒ぐのか、何かを期待する目。
 ラスアラスは一瞬言葉を詰まらせ、僅かに上を向いた後再びアルルに視線を戻した。

「ケツァルコアトル、って知ってます?」
「ケツァルコアトル?」
「私の国に伝わる聖なる獣です」

 ――ケツァルコアトル。
 それは星から生まれる獣の名。翼ある蛇。
 一葦の年に目覚め、世界を見守り平穏と繁栄をもたらすといわれる伝説の獣。
 汚れなき翼で世界を包み、優しくも厳しい瞳で全てを見つめる星の守護神獣。

 彼を目覚めさせ、護り育むのが自分の使命なのだと、ラスアラスは幼い頃両親から聞かされた。
 それまで信仰の対象でしかなかった神獣は、一瞬にして彼女の心を捉えて離さなかった。後、その使命を胸にケツァルコアトルの女神官となって半生を過ごしてきたのだ。

「今年がその一葦の年のはずなんです」
「それじゃラスアラスはそのケツァルコアトルに逢いにいくんだ? 一人で。凄いなぁ」
「ぐー、ぐぐー」

 大きな目を更に大きく、素直な感嘆を述べるアルルと、肩の上で偉い偉いと頷くカーバンクル。
 感心してもらえるのは嬉しいものだ。今までケツァルコアトルを生き甲斐とし、誇りとしてきた。それを誰かに認めてもらえるのは嬉しい。

「ですが」

 ラスアラスは表情を曇らせる。

「私に目覚めさせることができるのかどうか」

 溜息を吐けばアルルが首を傾げた。

「キミにそういう力があるわけじゃないの?」
「ええ、そういわれてはいるんですが……他に幾つか条件があるらしくて」
「条件?」
「『二つの鍵』『黄昏に生まれ暁に死ぬ者』。解っているのはこの二つの言葉。あと、」

 ローブの袖をめくりそこにある腕輪を見せる。
 長い縦線と短い横線の十字紋……ケツァルコアトルの紋章が施された腕輪。
 視線がそこに集まる。
 
「この腕輪が関係あるそうなんですけど、さっぱりで」
「ふ〜ん」

 引き寄せられるようにアルルが腕輪に触れる。

「う〜ん、ボクには何がなんだかさっぱり」
「ですよねぇ」

 しかし直ぐに離れた。
 ラスアラスは袖を下ろそうと腕を見、

「あら?」
「ん? どうかした?」
「え、あ、いえいえ、何でもないみたいです。気のせいみたい」

 慌てて手を振るが、アルルは気にした風もなく腕を組み顎に手をあてている。
 不意にその目がラスアラスへと向けられる。

「じゃぁラスアラスってこの辺の人じゃないんだよね」
「え、えぇ。私はもっと東の方出身なのでこの辺りにはあまり」
「東かぁ。街なんてあった?」
「街道からも離れてますし、少し閉鎖的なので見つけにくいかも」
「そっかぁ、ならわかんないかなぁ」

 呟き残念そうに笑う。

「アルルさんはどちらからいらしたんですか?」

 風は乾ききって埃っぽく、辛うじて頑張っている雑草と土のまだら模様。ひび割れた大地を灼熱の太陽が灼き、葉を高く掲げた細身の木が群れを嫌ってそこに立つ。かと思えば向うに見えるのは砂ばかりの地面で、遠方の岸壁を越えれば恐らくそこは熱帯林。
 昼間は極暑、夜は極寒。ここはそんな地だ。特にめぼしいものなど何もない……はず。ならば彼女はどこから来、何を目的としてここにいるのだろうか。
 問えば、そういえばという目。
 頭を掻き、

「ごめんごめん、言ってなかったね。魔導学園から来たんだ」
「ま、魔導学園!?」

 聞くなりラスアラスは口元に手をあてた。
 手を組み、目に星を輝かせてがばっと食いつく。

「魔導学園って、古代魔導学園ですよね!?」
「え、う、うん」
「凄い! 実は私も入学志願をしたことがあ――」

 迫力に押されたアルルが半歩後退し、ラスアラスがはっと正気に戻る。

「す、すみません、つい。志願したと言っても書類審査で不合格でしたし、神官の職に就いたのでどのみち無理だったんですけどね」

 古代魔導学園。
 それは全ての魔導師にとって夢であり憧れ。魔導世界唯一の高等魔導師育成校。
 その実体は隠蔽され、それ自体が何処にあるのか解らない。
 何者にも(それこそ世界が恐怖するような大国にさえ)膝を折ることなき魔導師の理想郷。

 失態を恥じ顔を赤くしていると、僅かに笑ったアルルが口を開く。

「人を探してるんだ」

 遠く街道の先を見て。
 
「この辺で見た人がいるって情報があったんだけどね。全くどこほっつき歩いてるんだか」

 細められた目は怒りとも哀しみともつかない。
 口元の笑みは既に消えていた。
 彼女の視線を追うと、遠くに街が見え始めている。




「それでは、ここでお別れですね」

 街に入ること幾ばくか。街道をバックにした十字路でラスアラスは足を止めた。
 アルルに向き直る。

「ねぇ、なんなら一緒に行こうか?」

 どこへ、とは訊くまでもない。
 困っている者は放っておけないタチなのだろう。
 優しい子。まだ出逢って間もないのに。心から案じてくれているのはその表情からも読み取れる。
 こんな風に人から気遣いを貰ったのは初めてだったかもしれない。が、ラスアラスは首を横に振る。

「いいえ。アルルさんにはアルルさんのすべきことがあります。ここでお別れです」

 ゆっくりと柔らかく言った。
 目的が違うのだ、一緒にいるわけにはいかない。道は既に分れている。

「でもまたさっきみたいな、」
「アルルさん」

 制してラスアラスは姿勢を正し真っ直ぐと彼女を見る。口元に笑みを引き、銀杖を回して槍兵宜しくとんっと石畳をついた。腰に手をあて、そして会心の一撃を言ってやる。

「私も魔導師です」

 その一言だけで十分だった。
 アルルの顔から憂いが薄れ、最後には強く頷いた。


□ ■ □


「おい、そこの魔導師」
「!?」

 アルルとカーバンクルに別れを告げ、裏通りを歩いていると呼び止められた。
 が、振り返ったのは声がしたからではない。
 咄嗟に杖を構える。

「……私の事でしょうか」

 とりあえず訊いてはみたものの、周りには自分しかいない。
 陽は低く夕煙たつ街の中。歩く人もなくなった黄昏一歩手前。
 とんでもないものに出遭った。本気でそう思う。

「貴様、面白い魔力を持っているな」

 男はただそこに佇んでいた。
 家々を、煙を、空を照らす死期の太陽。その血の色に染められた銀色の髪、青いバンダナ、白い長衣。温度なくこちらを見る鋭利な蒼眼。足下には最後の足掻きさえ許さぬ漆黒。
 目の眩むようなどぎつい紅光景の中にありながら、男の存在だけが全てを喰らい尽くすかのように強烈だった。
 荒々しいわけではない。真冬の月の如く鮮烈で、凍り付いた湖底のような翳りを孕んだ静寂。だからこそ尚怖い。
 知らない内に額から汗が流れ、喉がからからに渇く。杖を握る手に力が入り、奥歯を噛み締めやっと半歩だけ後退る。

「そのチカラ、」

 滑る声は低く、深い。
 手の中に魔力が集まり凝縮していく。もう片方の手にはいつの間にか剣が握られている。
 目が離せない。瞬きをすれば最後だと、さっきから本能が警告を発し続けている。
 この男、危険だ。

「寄越せ」

 細められた眼、老獪な笑み。
 背筋が一気に寒くなる。

 ――冗談じゃない!
 
 魔導師としてのプライドを持つことが許される程度には実力をもっているはずだったし、ある程度のことなら切り抜けられるつもりでいた。が、これはあんまりだいくらなんでも。格が違いすぎる。
 こんな男を相手にしてるくらいなら死の魔物でも相手にしていた方がまし。
 だがここで逃げ出す訳にもいかない。背を向けた瞬間に間合いを詰められたらそれこそ終わり。
 戦うしかない。
 勝算などはっきり言って、ない。逃げられるかどうかもわからない。だがまだ死んでいない以上、死なない権利はあるはずだ。

 どうにでもなれ。
 自暴自棄。


 男が動いた。
 ラスアラスは息を短く身を低くし――、
 が、何かが側を横切っていった。

「ぶっ!?」

 視界に黄色い物体が入り、男の顔にぶち当たる。どこに隠していたのか、爪痕を残してずり落ちる。

「あ、アルルさん!?」

 振り返ればさっき別れた少女がカーバンクルを投げた格好で止まっていた。
 体を起こし、アルルは怖い顔でラスアラスの横を通り過ぎる。彼女の靴音だけが赤色が濃くなった街に響いては消えていく。
 顔を押さえ呻いている男の前で一つ助走をつけ、

「でりゃぁ!」
「どわっ!?」

 蹴った。しかも飛び蹴り。

「て、テメェ、なにしやがるいきなり! つか何故ここにいる!?」
「なにしやがるも何故ここにいるもないでしょ、このすっとこどっこい! 探しに来たに決まってんでしょーが、まったく半年もドコほつき歩いてるのさ!? 大体こんな街中で何してるわけキミは! 迷惑でしょ、めーわくっ!! みんなだって心配して――」
「はぁ? 嘘付け、あの連中が心配なんてするはずないだろうがっ。精々使いっ走りに丁度良い人材がいなくな――は、そうか、お前サタンの差し金か。報酬はなんだ? 金か? 名誉か? 魔道具か? カレーか? ぷよまんか!!?」
「ち・が・い・ま・す〜。サタンじゃなくて校長に頼まれたの! 報酬は、ボクの、成・績☆」
「どっちでも同じだろうが! 貴様自分の偏差値如きで俺を売る気だなこの人でなしめっ!」
「同じじゃないでしょ! 偏差値如きってなにさっ、如きって。ボクにとっては将来掛かってるんだから! キミにだけは人でなし呼ばわりされたくないね、この変態がっ」
「〜〜っ、俺は変態じゃねぇっ!!」

 ぎゃーぎゃーと目の前で口論を始める男女はあまりにも不毛。

「あの、アルルさんが探してた人ってもしかして……」
「あ、あぁ、ラスアラス。また会ったね」

 声を掛ければ男の胸ぐらを掴んだまま少女が片手をあげてくる。今気付いたという調子。
 ちょっと傷つく。

「なんだ、お前の知り合いかアルル」
「そ、この危険人物がボクの探してたやつ。猛獣はとっとと檻に連れ戻さなきゃ。ねぇ、シェゾ?」

 ちっと舌打ちの音が聞こえた。目の下に青筋をたてこちらを睨んでくる男を無視し、アルルは簡単な説明の後彼に向き直る。その表情は同じく、目の下に青筋なのだろうことは想像に易い。

 彼の目がアルルに降りていく。軽く方眉を寄せ、そして彼女の手を払いのけた。

「残念だが俺には目的がある」
「何」
「南」
「どこ?」

 体ごと向き直った男が離れていく。

「ケツァルコアトル」

 あまりにも時事的な単語に、ラスアラスとアルルは顔を見合わせた。


□ ■ □


「覗き見とは大層なご趣味だな。……出てきたらどうだ」

 夜の帳が降りた宿屋の庭。
 木の影から出て行けば男は遠くを眺めていた。
 凍った空気が肌を突き刺す中、濁らない瞳の、さも涼しげな顔。

「魔力を奪われにでも来たのか?」
「アルルさんが側にいる限りあなたは他人を手に掛けない。そう思ったのですが違いましたか?」

 確信したのは最初に感じた覇気がすっかり退いていたからだ。
 アルルに会って、それ以来。
 だが完全に消えた訳ではなく、それは彼の中に引っ込み蜷局を巻いて眠っているだけにすぎない。今でもなお、あの暗き炎はとうとうと燃えたぎっている。

 離れて立ち、同じように前を見る。
 そういう趣向なのか、それともただ単に手入れが行き届いていないのか木と草が生い茂る庭。
 横目で僅かに相手を感じ取れる距離。間には見えない壁。張り詰めた緊張が暗がりに漂う。

 踏み込もうものならば斬られる。確実に。この魔導師はその静かすぎる殺気を隠そうともしていなかった。
 威嚇ではない。相手に知らしめるなど不要。ただそこにいるだけで絶望的な力の差を感じずにはいられない。
 魔導師ならば気付かないはずはないだろう。魔導師ならば。
 彼が纏う死の匂いに。いっそ清々しいほどの禍々しさに。その恐ろしさに。

 沈黙の後、彼が口を開く。
 
「東から来た、とか言っていたな。ケツァルコアトルの神官だと」
「ええ、そうです。東の……緑豊かな国です。ケツァルコアトル加護のもと、祈りと歌の絶えない街。多くの宮殿と神殿が建ち、畑は潤い、王は正しく、人々は穏やかな美しい国」

 特に嘘を吐く必要も隠す必要もない。
 今後の情報交換のためにも素直に言っておく。

「翼ある蛇を太陽神、豊穣神として祀る国か。お前は今までそこに住んでいたのか」
「ええ、彼は一葦の年に目覚める。その預言に従い、故郷を離れてここまで」
「ケツァルコアトルは実在するというわけか。……今でも生まれてくると?」
「でなければ私がいる意味がありません」
「お前がいることが一番謎だ。何故……」
「?」
「いや、いい。こちらの話だ」

 見れば彼は顎に手をやり何やら考え込んでいる。

「何故、彼女があなたに構うのか解りません」

 ラスアラスは木立に隠れた宿を視線を移した。小さく、一見民家かとも思えるそれの一室では、同行を提案した少女がふかふかなベッドに潜り込んで寝息を立てているのだろう。

「あなたは彼女の何なんですか」

 目を細め語気を強める。

「あなたは、何者なんですか」

 汗が夜風に冷えて首筋を流れる。
 夜が陰った。
 月が隠れたのだ。
 暗さが沈殿した庭に男の声が響く。

「詮索(せんさく)しにきたのか」
「いいえ」

 無機質な声音。
 ラスアラスは宿から目線を外し前を見た。

「ただ訊いてみたかっただけです」

 これ以上踏み込んではいけない。魔導師の感が耳元で囁く。
 闇の奥、彼が鼻先で嗤った。

「アレは俺のモノだ」

 思いがけず固まってしまった。

「アレの全ては俺のモノだ。アレのため……ただそれだけのために今まで力を蓄えてきたのだ、俺が欲しいのはアイツのみ。邪魔をするヤツは片っ端から斬り刻んでやる。誰にも渡しはしない」

 目眩がした。
 だんだん申し訳ない気持ちが膨らんでくる。
 
「貴様も気をつけるんだな」

 月明かりが戻り始め、宿屋の錆び付いた門が浮かび上がる。
 向けられた目は危険な輝きをたたえて不敵に笑っている。
 男の背後、晴れることのない闇がわだかまっていた。

「……大丈夫です。そんな趣味、ありませんから」

 もしかして私、ここにいちゃいけない?




「あれ、ラスアラスご飯食べないの?」

 不意に通る声が耳に届いた。
 と同時に朝の陽気と人々の声が感覚に戻ってくる。
 正気に戻り、ラスアラスは慌てて彼女を見る。

「え、えぇ。元々少食なもので」

 質素な宿に相応しく質素な食堂。
 無理矢理笑って見せたが、本当を言うと食欲がない。
 結局昨日はよく眠れなかったのだ。理由は勿論……

「ってよ。オラ、カーバンクル、俺のじゃなくてあっち狙え」
「ちょっと、キミはまたカーくんに変な事を……ってカーくんも言ってる側からラスアラスの取っちゃだめだって!」

 目の前の男女二人。
 フォーク片手にカーバンクルと格闘していたシェゾが前を指し、アルルがそれを横目で睨む。

「いえ、私は大丈夫です。カーくんにあげます」
「ぐ〜♪」

 殆ど手をつけていない皿をカーバンクルの方へと押しやる。

「あの、私やっぱり一人で行こうかと……」

 早速おかわりを平らげ始めるカーバンクル。
 そこから視線を上げて言うと二色の双眸が同時にラスアラスへと向けられる。寸分違わぬ全く同じタイミング。
 一瞬びくついてしまう。

「え、でも昨日一緒に行こうって言ったじゃない」
「でもお二人のお邪魔をするわけには……」
「は?」
「だってお二人は恋人同士なんでしょう? 私がいるとお邪魔になるじゃないですか」

 白い無言が三人のテーブルに降りた。
 アルルとシェゾの目が点になっている。

『はぁ!?』

 そして響く高低両音。

「コレと俺がか!? 一体誰がそんなことを言った、お前頭おかしいだろっ」
「ボクがコイツと!? ありえないありえない! こんな変態一緒にいるだけで疲れるのにっ」
「テんメェ……毎度毎度会うたびに変態変態とっ、少しは黙りやがれこのちんちくりん!」
「なっ、キミだって毎度毎度ちんちくりんっていうじゃないか! だいたい自覚がないのよこの変態は!」
「てっ、また言いやがったな!? よし泣かす。絶対泣かす!」
「お〜お〜やってみなさいよ、負けっぱなしの癖に!」
「〜〜っ!!」
「え、でも昨日シェゾさんが。お二人とも落ち着いてください。……見られてます」

 振り返りこちらを伺ってくる周りに視線だけ流して言うと、腰を浮かせていた二人が、あ、と声を漏らして席に着く。
 何もなかったように食堂が戻った。
 アルルが深く息を吐き、

「また誤解を招くようなことを言ったんだ? いい、ラスアラス。ボクとコイツは単なるお友達で――ほらコイツ他人の魔力奪って自分の力高めてるの知ってる?」
「ええ、それは昨日恐ろしいほどに身をもって」
「ボクの魔力も狙ってるの。コイツ」

 何だか良く解らないがどうやら複雑な関係らしい。
 そうなんですか? 目で問えば、気怠げに頬杖をついたシェゾが片手を振ってくる。
 眉を寄せラスアラスが釈然としないでいると、その側をアルルの声が通りすぎていく。

「とにかく目的が一致してるんだから一緒に行く。いい?」

 人差し指を立てて言うアルル。
 横から溜息混じりが割って入った。

「お前の目的は俺の無事を確認するだけなんだろう? 目的は達したんだ、とっとと帰れ。俺は一人で行く」

 シェゾ。
 彼の本質はこの数刻で大体解った。
 自分勝手、だ。

「確かに校長に言われたのはそれだけだけど、ボクにはキミを見張る権利がある」
「そんなものはない。一体どこから出てきた」
「Dシェゾに言われた。変なことしでかしそうになったら止めてやれ、って」
「……どいつもこいつも勝手なことを」

 呑気に張詰める空気。
 朝の穏やかさに包まれた食堂内で、確かにここだけが渇いた重圧を帯びている。
 アルルの妥協のない視線が別方向を見たシェゾを牽制する。

「ケツァルコアトルはラスアラスの大事な神様だ。キミには渡さないから。ラスアラスにも手出しさせない」

 口出しを許さない強い語調で重ねられる言葉。
 視線の先は緑が輝く窓の外へ。彼は気付いている。ケツァルコアトルに辿り着くには必要なものがあることを。
 長い間があり、

「好きにしろ」

 疲れたように彼が折れた。




 生暖かさはそれだけがこの世の全てであるかのように全身に絡みつく。
 ごつごつした岩肌の山腹。吹き抜けていく風に感じる温度も一定で、余計に暑い。
 見上げる太陽は素知らぬ顔。呼吸と体力を否応なしに奪う灼熱。重苦しさだけが募っていく。
 先をアルルとシェゾが何か話しながら歩いているが、内容はよく聞き取れない。
 瞼が重い。二人の後ろ姿が霞み、目を閉じそうになるたび見開いて、杖で体を支えながら前へ進む。

「…………」

 ふと、崖下の緑が見えた。梺を埋める木々の列。
 靴先が小石を蹴り静止。ぼんやりと揺れる視界の景色。

「ラスアラス?」

 アルルが呼んでいる。
 振り向けない。力が抜ける。
 歪んだ林が色合いを濃くし、

「ラスアラス!?」

 腕を掴まれた。

「うわぁっ」
「アルル!」

 鼓膜を掠めたアルルの声を、シェゾの声が追いかけてくる。

「っ、アルルーーーーーー!」

 不吉な魔導師の狼狽した叫びが響いた。


□ ■ □


「お兄様はご乱心されたのよ」

 石の床を踏む靴音が、小さく神殿内に木霊する。
 白い光が隙間から降り注ぐ清浄。ここだけは血の色も匂いも届かない。
 声をかけると祈りを捧げていた彼女が顔を上げ、こちらを向いた。

「テスカトリポカの使者に無理酒でもさせられたんだわ」

 忌々しさを込めて吐き捨てる。

「だってそうじゃない? こんなの、間違ってる」
「ペトラトル……」
「ケツァルコアトルは目覚めた。なのに選んだ結末が――これよ?」

 声高く両手を広げ、しかし語尾は力なく。
 泣きそうなほど弱々しく情けない。これが王の妹でありケツァルコアトルの神官たる者のセリフだろうか。だが事実だ。
 拝礼者のいなくなった神殿。
 男は一人残らず戦いへと駆り出され、女子供は宮殿の奥で縮こまっている。
 かつてあった笑いも、歌も、平穏もない。残された神官達の間にも不穏と諦めが漂い、そこには顔色をなくした沈黙が満ちているだけ。
 いずれはここも、紅く血に染まるのだろう。

「王は最善を尽くしただけよ。それしかなかった」
「そうね。そうかもしれない。でもその選択は彼らに行動の切っ掛けをも与えたわ」

 振り返った親友の慈悲も白すぎる空間に溶けていく。
 仕方なかった。そう、確かに仕方がなかったのだろう。かの者らが反旗を翻すのは時間の問題だった。誰かが押さえつけなければ、世界は傍若無人な殺戮に支配されてしまう。人々は自由な生を脅かされ、暗黒の世界が訪れる。
 やむを得なかったのだろう。彼女の、まさに"女神"と呼ばれるべきその姿も。人々にはそれが必要だった。その光が必要だった。
 団結するためには、強大な敵を目の前に世界が一つになるためには、決して折れない柱が、必要だった。

「ケツァルコアトルは生贄なんて望でいない。誰かが犠牲になる必要なんてなかった」

 だが他に選択肢はあったはずではないのか。でなければ何故失わずにはいられなかったのか。そもそも、今この状況は自分たちがもっとも恐れていたものではないのか。

「あなたには幸せなままでいて欲しかった」

 今ではもう願うことさえかなわない。

「昔の話しだわ」
「そうね」

 得体の知れない笑いが込み上げてくる。
 奥底まで虚な、粃の笑み。しかし直ぐに消える。

「ねぇ、」
「逃げろ、って?」
「…………」

 一度逸らされた瞳が向けられる。
 分っていた。彼女は自分のために他人を犠牲にすることができない。それが彼女の強さであり、同時に愚かさ。

「私を頼り、救いを求めてくる人々を見捨てろ、って?」

 光を集めた金無垢の瞳。鎖に繋がれその場に縛り付けられた強い意志。
 夜闇が訪れるたび、失った温もりに泣いていた少女の面影はどこにもなかった。

「ケツァルペトラトル」

 名を呼ばれ眉を寄せる。

「運命には逆らえないの」

 褪せた声音。無の前兆。

「逆らえないのなら、きっとこんな事にはならなかったわ」
「…………」
「ねぇ、敵に荷担してる魔導師ってやっぱり……」

 ふと思い出す。顔を上げ言葉を詰まらせた。
 彼女の寂しげな微笑みが仮定を確信へと変えていく。噂は本当だったのだと思い知らされる。
 あの時、死に瀕した兵士が遺した言葉は、うわごとのように呼んだ名は幻聴ではなく、血に濡れた手、握っていた彼女の顔が途惑いに変わったのも幻覚ではなかったのだと。

 女神の細い左薬指、紅玉の指輪が涙のように光っていた。


□ ■ □


 頬を何かに叩かれる。
 痛いようなくすぐったいような感触に瞼を上げると、いきなり黄色い顔が視界を埋め尽くした。

「☆×●#$%!?」

 思わず飛び退き、拍子、背後の幹に腰をしたたかぶつけてしまった。

「ラスアラス、起きた?」
「あ、アルルさん」

 痛みを堪えて震えているとアルルが駆け寄ってくる。
 腰をさすりさすり辺りを見回す。薄暗い木陰、枝と枝の間から漏れている白い陽光。

「私、崖から?」

 問うと答えの代わりに水筒が渡された。

「ごめんなさい。アルルさんやカーくんまで巻き添えに……」
「良いって良いって。でもほんと無事でよかった」

 カーバンクルを抱きあげ座り、アルルが明るく笑う。

「初めての旅で疲れてたんだね。少し休んだら行こうか。なんだか……」

 言葉を切り横を向いた。どこか遠くを見、その瞳に僅かな光が過ぎる。

「探してるみたいだし」

 苦い笑い。
 彼女が向いている方向には同じような木々の景色が続いている。聞こえるのは枝のざわめきと、遠くで鳥の囀りだけ。

「やっぱり、わかるんですね。あの時も?」
「うん。まぁ腐れ縁だしね」

 だが理解し口元柔らかくラスアラスが言うと、アルルはうんざりと肩を竦めた。その仕草もどこか楽しげ。

 木漏れ陽が強くなる。
 木根にもたれ、ラスアラスは目を細めた。




 林を抜けると行き着いたのは岩壁に囲まれた乾いた渓谷。
 反対側からやってくる人影に気付いたのは程なくしてから。それは早足で近付き、

「おい」

 視線を上げきるのも待たず首を掴まれる。

「言ったはずだ。アイツは俺のモノだと」

 発するべき言葉や呻きは喉の奥で握りつぶされていた。
 降りてくる声は初めて聞いたものよりも冷たく鋭く。

「邪魔者は消す、と」

 ギリギリと悪魔のような力で絞められる。
 太陽が灰色の雲に隠れ、風が冷気を帯びて影を濃くする。

「他人のモノを勝手に引きずり込むとは、良い度胸だな。あ?」

 予期していた、罵倒と敵意のこもった蒼い眼差し。
 必死に許しを請い呼吸を求めた喘ぎも、きつく閉じた目尻に滲む涙も、彼の意識には届かない。
 男の骨張った手に女の爪が食い込み、しかし構わず薄笑いすら浮かべて更なる力が加えられる。
 骨が軋み、頭が熱くなる。

 ――折られる!

 ラスアラスは背を反らせて声にならない悲鳴を上げ、

『…………』

 しかし横合いから彼の腕を掴む手があった。

「お前は引っ込んでいろ、アルル」
「…………」
「ア、ルル、さ……?」

 首を絞め上げていた手が僅かに緩む。
 しぼり出した声が音になっていたかはわからなかった。がアルルは唇を引き結んだまま強い目つきの金無垢を横目で睨む彼に向けていた。
 好奇心旺盛な明るい少女の目ではない。神経を研ぎ澄ませた、無表情な戦う者の目。
 戦いの場に立つ魔導師の目。

「無事だったでしょ。だからいいじゃない」

 彼女の言葉にも熱はなく、それでも視線は強い光を湛えたまま。

「黙れ。お前には関係ない」
「関係あるね。手出しさせないって言った。それにボクはキミの"モノ"じゃない」
「お前は、」
「それとも何? 無抵抗な人間をいたぶって楽しいわけ? キミっていつからそんなに落ちぶれてた?」
「…………」

 アルルが口端を吊り上げシェゾが黙る。
 彼の絶対零度な瞳が彼女を正視し、

「……闇に堕ちてる時点で人間のクズだろうが」

 手が離れた。
 崩れ落ち、ラスアラスが激しく咳き込む。その肩に触れて片膝をつき、アルルは鋭くした表情をシェゾの背中に向けた。不規則な呼吸を繰り返しながらアルルの手首を掴んだラスアラスが小さく首を横に振り、慰める目で覗き込んだアルルが口を開く。

 だが言葉は発せられなかった。出し抜けに谷間へと響いた哄笑が遮ったのだ。
 振り返れば崖の上にはいくつもの影。中には見たことある面構えがちらほら。そして聞き覚えのある耳障りな濁声。

「おぅおぅ、誰かと思えば嬢ちゃん達じゃないか。昨日は随分と世話になったなぁ」

 思い出した。
 昨日の盗賊。

「ここで会ったのも何かの縁だ。仲良くしようぜ」

 より多くの手下を引き連れ悦に入ってるらしい親分。演技掛かった大声に、何がおかしいのか荒くれた下劣な笑いが重なる。

 だが空気が変わるのは一瞬。沈黙が訪れるのは瞬時。
 塞(せ)くように、白装束が女二人の前に進み出た。

「丁度良かった。こちらと色々あって苛ついてたところだ」

 シェゾ。
 灰雲の切れ目から覗いた太陽が、いつの間にか肩に担がれていた水晶の剣身を白く照らしていた。
 蒼い外套(マント)が乾季の寒空に眩しすぎる。
 ゆっくりと地を踏む足下の影よりも黒い気を纏った魔導師。
 凶悪に口元を歪めている冷声は渓谷に良く響く。
 崖の上、聡い数名がたじろいだのが見えた。

「仲良くしてやるからどっからでも掛かってこい。一人残らず地獄に送ってやる」




 シェゾが盗賊達を軽く捻り潰したあと、アルルの思いつきで彼らをお金に換えてしまおうということになった。つまり町で引き渡して報酬をもらってしまおう、と。それで一人残らず梺の町まで連行したわけだが、

「まったく、ふざけてるのか!?」

 ギルドから出てきたシェゾの機嫌があまり宜しくない。
 噂ほどいいお金にはならなかったのかと思っていると……、

「八十万だぞ、八十万!」
「……いいじゃん」
「あのザコ共がだ、どこがいいんだ!? ありえんだろう!!」

 逆だったらしい。

「あっちで話してるのを聞きましたがあの人達、長い間この一帯を占領してた盗賊団だったみたいですよ。随分好き勝手やってたそうで」
「…………」

 ラスアラスが指さして言うと、上を向いたシェゾがこめかみを押さえた。

「世の中終わったな」

 さりげなく酷い。

「俺なら億は堅い」
「自慢になんないでしょ。強いのもあくどいのも認めるけどさ」

 顎を撫でながら目を光らせるシェゾに、呆れ返った横目でアルルが嘆息。

「だいたいそれで標的にされないのは学園がある程度力添えしてくれてるからなんだからね? 少しは感謝して大人しくしてなよ」
「ふん。要らん力添えだな。頼んだ憶えもない」
「キ〜ミ〜は〜〜っ。もう、そんなんだから……まぁ良いけどさ。でも早かったね。すぐ報酬もらえたんだ?」
「ああ、サタンの名出したらすぐくれたぞ」
「…………」
「普段良いように利用されてやってるんだ。ここぞって時に利用してやらんと割に合わんだろう?」

 彼らの隣で歩を同じくしながら、ラスアラスは眉を寄せた。
 シェゾとアルル。並んで歩く二人の姿が、何故か違う人に見えたのだ。
 誰?
 輪郭を捉える前に見知らぬ肖像は消えている。

「ラスアラス、どうかした?」

 額に手をやり目を閉じているラスアラスをアルルが覗き込む。
 しかし彼女は答えずに顔を上げたまま遠くを見た。薄茶色の壁が立ち並ぶ町並みの、遙か彼方。金色に淀む遠景にその影を見出すように。

「神殿……」
「え?」
「神殿が目を覚ましたようです。時が近い。一刻も早く……」

 アルルが奇怪しそうに首を傾げている。シェゾは表情を消してこちらを見ている。
 分っている。何か変なのだ。

「でも今日は遅いですし、宿を探しましょうか」

 顔を二人へと向け、ラスアラスは無理矢理笑って見せた。




「アルルさん?」
「え、あ、なに?」

 何度目かの呼びかけで、円卓に肘をついてぼんやりしていた少女がようやく気付く。
 庶民的に少しだけ豪華な二人部屋。
 外の闇を眺めていた瞳が虚ろから戻ってやっと向かいに座った女を映す。

「もしかして気になります?」
「え、何が?」
「シェゾさんのこと」

 途端、ガタンと椅子が鳴った。
 焦りを浮かべて体制を直しているアルルにラスアラスはくすくす笑う。

「おもいきり叱りつけちゃいましたものね」
「そんなんじゃないって。ただ、また逃げ出さないかって、そこが心配なだけ」

 逃げないと思いますよ。とはひとまず言わないでおく。

「あの時のシェゾさん、ケツァルコアトルのことも魔力も眼中に無かったと思います」

 少し遠回しに。
 淹れたての紅茶を口に含む。
 疑問符を浮かべた目を向けられ、カップを皿に戻したラスアラスは口端を引き延ばしてにんまりと笑った。

「心配なら行ってみたらどうです?」
「はい?」
「お部屋、お隣でしょう?」
「だっ、」
「行かないと逃げられるかも」

 罪滅ぼし、というわけでもないのだけれど。
 アルルが何か言いたげな表情で口をつぐみ、代わりに立ち上がったラスアラスが扉を開く。
 どうぞ、と笑顔のまま片手で部屋の外を示してみせれば、しぶしぶと廊下へ出て行く少女。
 その背後でゆっくりと閉めた扉。手をつきぴったりと耳をつける。隣の扉がお決まりの回数叩かれ開く音。一言二言、言葉が交わされ、そして閉ざされた。

 廊下が静まりかえったのを確認するまでもなく、ラスアラスは扉から離れくるりと回れ右。
 お腹を上に向けくーすかと鼻提灯をふくらませているカーバンクルを横目に窓辺へ寄る。鍵を外して窓を開け、手すりにもたれて身を乗り出す。
 木の影、町の青い輪郭。野獣の遠吠えも安らぎに眠り、ひんやりと頬を撫でる風が心地好い夜。
 今宵は闇が穏やかだと、そう感じた。




「で、昨日は何か進展ありました?」

 食堂内、一つの円卓。
 問うと眼前の男女が同じタイミングでフォークとナイフを止めた。

「は、はい?」
「な、なにがだ?」

 汗を垂らした声音で問い返してくる。

「一晩中お二人でいらしたんでしょう? 私ずっと待ってたのに」

 くすんと目元を拭う。
 涙なんて出ているはずがない、勿論嘘である。
 だがラスアラスが目を覚ます時刻になっても部屋に戻ってこなかったアルルには知りようもないだろう。
 
 アルルとシェゾが緘口した横目でちらりと互いを見やり、しかし直ぐに逸らして反対方向をむく。
 ラスアラスの前には既に空となったお皿と、その上で行儀良く並んだナイフとフォーク。横では朝食後早々からカーバンクルが惰眠をむさぼっている。
 肘をついて指を組み、顎を乗せた女がにやりと笑った。

「で、どこまで行ったの?」
『何もしてない!!』


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