Your fragment

 

 

静やかな風に乗せて聞こえる音色。優しく暖かな、まるで朝梅雨に濡れた絹糸のように細くて繊細なその旋律は、今のこの瞬間を支配する闇黒の中では余りにも異質であり、異端であった。しかしそれを奏でし者の姿はあまりにもその闇に溶け込みすぎており、異様なまでの妖艶さを漂わせ、見る者があればその不協和音の世界に魅了されていたに違いない。

 しかし例えその姿を見る者が有ったとしても、誰も気付く事はないのだろう。

その真紅が、まるで闇に溶け込むまいと抗うように存在してることを。奏でられる音色が迷いと、多大な不安の為に震えている事を。

 

「……こんな所に居たのか…」

 

 流れ続ける音色を引き裂くようにもたらされた低い声。闇を切り取ったようなその姿に、音色はひたりと掻き消えるが少女は何も言わない。言葉を亡くしてしまったように。ただ、ゆっくりと立ち上がり彼に背を向け、ギターを強く抱き抱えて。

まるで無音の時が流れるように、二人の間で、二人の空で、木の葉が揺れて星が輝く。

 

「…何故黙って外に出た?あれ程俺の傍を離れるなと…」

「……来ないで…!」

 

 苛ついた様な声は、草を踏みしめる長靴の音は、突然の弾かれたような科白に掻き消された。肩を掴もうとした手は空を切り、刹那の間、彼の紅い瞳に苦しげな表情が過ぎったような気がしたが、それは淡い月明かりが見せた幻想だったろうか。

 

「……近寄るな…」

 

 強い言葉とは裏腹に、声は虫の羽音程に小さく、目の前の少女はその科白を吐かれた彼のそれ以上に、傷ついた表情を浮かべていた。

まるで自分の唇が紡ぎだした言葉が意外なものだったように。まるで自分の唇が紡ぎだした言葉を恐れるかのように。

その身体はもしかしたら小さく震えていたのかもしれない。しかし濃い闇に隠れ、それを確認する事はできなかった。弱い月の光では彼女の小さな変化を認める事は…。

 

「……Dアルル…」

「…怖いんだ…!!」

 

 震える叫びに踏み出そうとした一歩を止める。伸ばされた手は彼女に届くはずもなく、虚空を掴んだ拳は目的を果たす事無くそのまま下ろされた。

 

「……怖いんだ……」

 

 俯き紡がれた言葉は先程よりも小さく弱々しく。

 

「……君が傍に来ると、ボクがおかしくなる…。君が居ると…ボクの中のリズムが狂わされるんだ…!ボクの中で何かが目覚める…。

ボクが…ボクでなくなってしまう…!」

 

 彼女の言葉を、彼はただ静かに聞いていた。偏に無表情を貼り付けて。しかし、その奥に、誰も知る事のできぬ想いを強く掻き抱いて。

 

「……一人にしてくれ…Dシェゾ…」

「……そうか…」

 

 一度伏せられ、再び開かれた真紅の瞳には何処か冷たいモノが宿る。

徐に胸の前で重ねられた左の拳と右の掌。ゆっくりと左右に開かれていくその間の空間には、一振りの、漆黒の刃を持つ剣が現れていた。

 彼の、自らの身体を以って創り上げられた黒き水晶の剣。己の肉体を鞘として持ち続けるその剣身が、右掌からゆっくりと音も無く生えてくるような光景は何度も見ているはずの彼女でさえ、思わず顔を顰めてしまう。

流石に「痛くないのか」などという野暮な事は訊かなくなったが。

 

「…………」

「……どういうつもり…?」

 

 辺りの空気が冷たく凍りついた気がした。

今、この時まで旅の仲間として、相棒として共に歩んできた筈の相手が、自らの意思により剣を抜き放ち彼女の前に立っているのだ。

 何の感情も示していないような表情のまま、紅い瞳に冷たさだけを湛えて。

 動かない身体。まるでその紅に魅入られたかのように。彼の、草を踏み締める長靴の音だけが無彩色の音となりて空気を震わせ、自らの中で乱れ来る音が、彼女の耳には煩いほどに鳴り響く。

 
 音もなく振り上げられた切先は、一瞬宙で静止した後、勢いを付けて降下を始め、

 

「……っ!?」

 

 落ちた音韻。壊れた二人の音色。

何かが音を立てて、砕け散った。

 

 

 

 

「……こんな所にいたのか…」

 

 不意に闇に響いた声に、しかし彼女が反応を示す事はなかった。星を見上げるように空を仰ぎ、風を感じるように目を閉じてまるで、ただそこに存在するだけのモノであるかのように。

 

「…何故黙って外に出た?あれ程俺の傍を離れるなと…」

 

 焦燥を含んだ声に、漸く彼女が静かに笑う。

 刹那の瞬間、心を得たように。

 

「……あの時と同じ科白だね。大丈夫だよ。もう連れ攫われたりなんかしないから…」

「……だと良いがな…」

 

 肩越しに振り向いた彼女の微笑みに、少しだけ安堵したような溜息を彼は吐く。ゆっくりと近づき、後ろから強く抱き締めるが、もう、彼女が彼の腕から逃れる事はく、それどころか自ら彼の胸に身を寄せる。服の擦れる音が闇に弾けた。

 

「……一年前の事、思いだしてたんだ…」

「うん?」

 

 背中と頭に彼の温もりを、その息遣いを感じながら彼女は言葉を紡ぐ。今の幸せを思いながらも、不安と迷いと怯えに支配されていたあの頃を思い出して。

 

「……この場所で、初めて君を拒んだ…」

「……そういう事もあったな…」

「そして初めて君からプレゼントを貰った」

「…あぁ…憶えている…」

 

 決して忘れる事などできないだろう。互いに大きく擦れ違い、そして同時に己の中に芽生えた想いを分かち合った夜を。

 そっと触れるは胸に煌く黒水晶。

 銀の鎖、ちゃらり静かな音を奏で。

 

彼の欠片。ペンダント。

 

「あの時はどうかしてたんだ……。知らない記憶が紛れ込んでいたり、今迄使った事の無い力に、突然目覚めたり。

君には関係のない事なのに君と出逢った事の所為だと勝手に決め付けて…。君の気持ちも考えずに傷つけたね…」

「……お前の所為ではない。俺の方こそ、お前の不安を見抜けなかったのだからな……」

 

 

そっと目を閉じあの日を想う。

彼と出会った事を切っ掛けとするように現れた自分以外の誰かの記憶。襲い来る魔物をいとも簡単に消滅させてしまった未知なる力。自分の中に目覚める何かに怯え、彼に当り散らした夜。

 

砕かれた欠片、折れた剣。絶望の表情を浮かべた彼女。混沌の想いを抱えた彼。握った手は冷たく、握られた手も冷たく。

しかし手の中の黒水晶は微かな温もりを引き留めてそこで輝いていた。

 

『我は直(ただ)、お前の望みを叶えてやりたかった。それだけだった…』

 

 たった一つの欠片のみを残して遠ざかる背中。彼の真紅に宿る辛苦に気付いた時、唯ひたすら泣き崩れる事しかできなかった幼い少女。

手の中に残されたるは想いのカケラと寂しい涙のメロディ。

 

 

流れる風は冷たく二人の頬を掠めるけども、その冷たさを知ればこそ、互いの身体は暖かく。過去の擦れ違いを知ればこそ、今共に歩む事ができるのだと。

 

永き旅を終え、漸く戻ってきた地。

彼女を捜して走り彷徨った街。拒んだ報いと全てを諦めかけた場所。

二人を繋いだのは黒き水晶と白き旋律…。

 

真に互いを認め、共に歩み始めたこの地で誓う。始まりの場所にて二人、想う。

あの時失いかけた物、もう二度と見失わない。

 

「……これからも、私の傍に居てくれるかい?ディーシェ……」

「当然だ。お前の方こそ離れるなよ?ディーア……」

 

 星が煌き風が舞う。

互いに身を寄せ合い比翼の鳥は、その歌声を響かせながら、過去の止まり木にて翼を休めている……。

 



あとがき


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