日記掌編

No 22. 哀花


「ルルーはどうした?」

 先ほどからパタパタと走り回っていた足音が聞こえない。
 書類の上でペンを止め、顔を上げたサタンはふと隣に尋ねた。

 壁一面に本棚が並び、新古書区別無く片隅に追いやられ積み上げられた紙の束が我が物顔で居座る執務室。
 辛うじて仕事ができる程度の空間を残したデスクの上で振り返ると、覗き込んでいたインキュバスがやや困ったように眉を寄せて視線を真横に流す。
 つられて見れば成る程、確かに少女はそこにいた。狭苦しい部屋の一郭に一つだけあるソファをまるまる独占して。

「全く、しょうがないやつだな」

 笑いが込み上げて来る。
 立ち上がり、サタンは少女に歩み寄る。

「起しますカ?」
「構わん」

 追いかけて来ようとする夢魔を制し、長身を屈めて白い身体に腕を寄せた。

「勉強も忙しいだろうに手伝ってくれているのだ、少しは休ませてやろう」

 抱き上げ、顔を覗き込む。
 小さな吐息。
 緩やかな波を描く髪は青色。翡翠の瞳は強気に閉ざされ、しかし柔らかな寝顔は普段の彼女よりも幾分か幼く見える。
 いや、普段が夙成(しゅくせい)しすぎているのだ。故意的なのかそれとも自然とそうなってしまうのか、彼女は決して真実を他人には見せない。

「サタンサマ」
「部屋に送ってくるだけだ。たまには良かろう?」

 紫の夢魔が僅かに眉を跳ね上げたのが視界の隅に映った。
 苦笑を向け、そして足を踏み出す。

「すぐ戻ってきてくださいヨ!?」
「解っとる解っとる」

 傍を通り過ぎると追いかけてくる溜息交じりの声。
 軽く答えたサタンは、ルルーを抱え直し執務室を出て行く。
 鮮明に響く靴音。暗青の外套と影だけがくっついてくる。
 薄暗い廊下を歩き突き当たりの魔法陣を使って宿舎に渡る。数ある扉から迷うことなく一つを選び開くと、微かな軋みと供に花の香りが漂ってきた。
 乾ききった空気を潤す芳香。

「光よ(ライト)」

 扉を閉め小さく唱えると壁に魔導の明りが灯る。
 大きな鏡台、花瓶に生けられた色とりどりの花、箪笥から溢れた衣装が掛けられたハンガー。
 他の部屋よりも華やかな、そして他の部屋よりも小奇麗に飾られた部屋。
 ルルーの手によって、彼女自身の為に整えられた部屋だ。宿部屋というよりも踊り子の控え室。
 
 小さな空間を満たすのにさえ仄かすぎる香りは、一歩踏み出すごとに花びらを散らし思い出すことさえできなくなる。

 少しだけ勿体無いように感じながら、サタンは隅に追いやられた寝台にルルーを下ろした。
 毛布を掛けてやり、椅子を引き寄せてそこに座る。

「少しだけだ、少しの間だけ」

 誰にでもなく言い訳をし深く息を吐く。
 目の前で寝息を立てる少女を見た。
 人間であるにも関わらず魔族の中に身を置く少女。
 百年と生きていない人間の少女。百年と生きないであろう人間の、少女。

「人の中で生きていた方が、幸福になれるであろうものをな……」

 紅玉の目を細め、鋭い爪で傷つけてしまわぬよう、そっと前髪に触れる。
 本当は気付いているのだ。指先が震えていることくらい。
 口に出した傍から自身がそれを否定したがっていることくらい。
 ずっと蓋をし押し隠そうとしてきた感情。もっと冷徹である積りだった。もっと冷徹でなくてはならなかった。今までそうだったのだ、これからも……。なのに何故だ、拒めないのは。
 
 ルルー。彼にのみ真実を垣間見せる少女。魔王である彼にのみ、真実を突き付ける人間。彼女の存在は後に悲しみとしかならないだろう。それなのに突き放そうとすればするほど心は悲鳴を上げる。どんなに見ず知らずを決め込んだところで、奪われると知った途端嫌だ離すかと叫びだす。精神が涙を流し、理性をぶち壊さんばかりの抵抗を始める。
 全く、なんと情けないほど愚かしい我侭。

「……ん」

 寝台の少女が呻き身じろいだ。
 サタンが顔を上げればうっすらと開かれる翠の瞳。

「…………」
「心配せんでいいから、少し寝ておけ」

 少女の微睡んだ口元が開閉し、サタンはふっと微笑を漏らす。
 離してしまった手を前髪に滑り入れ指を絡めながら囁くと、ルルーは小さく頷いてもぞもぞと毛布の中に沈んだ。
 再び安らかな寝息を立て始める。
 
 嘆息を漏らす。
 恐らく彼女は目の前の人物が誰なのか、解っていない。
 目を覚ました頃には夢と信じ、思い出すこともないだろう。
 この部屋を満たす花香のように。

 それでいい。
 彼女が目覚めるまでに部屋を立ち去れねばならない。
 それからは今まで通り。引っ付いてくる彼女を軽くあしらい、冷たく接すればいい。
 だから、それまではもう少し……。

「…………」

 サタンは天井を仰ぎ目を閉じた。

 ――願わくば、このまま彼女の心が離れてゆかんことを。



 花の香りが僅かに甦った気がした。






数分後。

「……ぐぅ〜……」

 サタンは寝ていた。
 ルルーの寝台に突っ伏して。

「あ〜、やっぱりこんな所で寝てマス!」
「あら、いいじゃない。ほっとけば? その方が面白そうだし」
「そんな事言ったってネ、魔界連中に文句言われるの僕なんデスヨ!? 教育がなってないとかデ」
「あ、そう? ま、頑張って♪」
「サ〜キュ〜バ〜ス〜〜〜ッ!!」
「うぅ〜ん……カーバンクルちゃん〜〜……」
『…………』

 THE END


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