日記掌編

No 15. 特権


「何なのよ、これは」

 目を丸く首をかくりと横に傾ける。
 木々に囲まれた緩やかな斜面。他人の通行を邪魔して横切る水の流れに、首を傾げたまま彼女は唸った。

 
 魔導学園が独自の自治権により統治する街の外れ、肩書きの割には結構いい加減な魔王が住まう塔へ向かう道のど真ん中に、ルルーは呆然と突っ立っている。
 あまりにも意味不明な事態に飛び跳ねた青い髪はそのまま、きりっとした翠の双眸も格闘家らしく自信に満ちた肩も、今はやる気なさげな前のめりの平ぺった。絹織りの大胆なドレスだけが風に柔らかく舞い、そして、

「なんなのよこれは……っ」

 艶やかな紅唇をひくひくと、もう一度呻いて眉間を押さえる。
 
 先日、あっさりと魔王護衛の地位を手に入れ、ちゃっかり傍に居座る許可まで頂いてしまったルルーは、その後も変わらず魔王の塔に通い入り浸っていた。
 学園の授業を終え、いつものようにいつもの道を上って塔へ行く……はずだったのだが、しかしこれは一体どういうことなのだろうか。
 昨日までは確かになかったものが道を横切っているのだ。河が。坂道を。

「…………」

 しかもでかい。しかも早い。
 少し目線を上げれば、青空を背負い天を目指して聳え立つ偉そうな塔。目の前でごうごうと唸りを上げている水流がやけに似合っている景色。
 途切れた道の先では大量の水が四散する事も横流することもなく一定方向に流れていく。
 ……ありえない。

「新手のイヤガラセかしらねぇ」

 誰からの、というでもなくそんな考えが過ぎる。
 溜息を吐いて背筋を伸ばし、彼女は辺りを見回した。
 取り合えずこの河を渡らねばなるまい。折角ここまで来たのだから引き返すのは面倒だし、第一このままでは魔王に逢えないではないか。
 しかし有るのは茂った木々と道の傍に生えた雑草くらいのもの。
 諦めて視線を下ろせば流れる水面に歪んだ自分の顔が映り、一歩踏み出して覗き込む。
 と、

「何をしている」

 地に立つ音と降りてくる声はほぼ同時だった。
 嫌味なほど音楽的に優しいテノール。
 勿論知っている。
 ルルーの瞳がきらりと輝き、口元に微笑が乗る。

「この河、泳いで渡れないかなぁ〜なぁんて、」

 言いつつゆっくりと振り返り、

「思っただけですわ」

 相手をじっと見つめ、

「サタン様」

 名を呼んだ。

 そこには不敵に笑む男が一人。
 深緑長髪、血紅眼、頭には捩れた黄金の双角、背には雄大な黒竜の翼。
 碧き自然界の中にあってそれだけが切り取られたような存在感。
 魔族の王。魔界の貴公子――サタン。

「試してみるか?」
「遠慮しておきます」

 風が息を止め、木々がざわめきを止める。
 貴族然と赤衣を着こなした男の問いに、彼女はにっこりと笑って答えた。
 慇懃の欠片もない穏やかな空気。

「ドッペルアルルが来ているのだ」

 縦長の瞳孔を流れに向けサタンが言う。

 ――ドッペルゲンガー・アルル。

 親友のドッペルゲンガーを名乗る赤服の少女を思い浮かべ、

「一人で、ですか?」
「いいや」

 訊くとこちらに目を向け頭を振った。
 と、いうことはいつもの二人組みか。
 おそらく彼女はおまけでくっついてきた方だろう。

「放置してあった洪水壷をひっくり返したらしくてな、止め方が解らないと外に放り投げたらこの有様だ」
「それじゃぁ効果がなくなるまではこの調子ですか。それで、ご用事はお済になりました?」
「いや、今からだ」

 事務的な問答。

「ならこんな所で油を売っている暇はないのではなくて? 塔に戻られた方が……」
「問題ない」

 あちらからの訪問、というわけではないはずなのだが。
 客人がオリジナル同様の短気ではないことに感謝する。
 
「取り残された羊は速やかに群れへ戻してやる必要がある」
「羊……ですか。自分で渡れますが」
「無理だな」

 さくりと草を踏む音。
 腕を掴まれてきっぱり言われ、ルルーは口をへの字に曲げる。
 女の意地というわけではなかった。護られるよりも護る側に立つと大口を叩いたばかりなのである。自分はひ弱な人間ではない、と。魔導が使えなくともこの身一つで乗り越えてゆけるのだと。
 助けてくれなんて言いたくない。プライド的に。

「どう渡る気なのだ? 木を倒して橋でも作るか?」

 見上げれば無表情な紅い瞳。

 ――それは無理。

「この辺の木々は妖精たちの棲家です。彼らの家を奪う気はありません」
「…………」

 とはいえ迂回しようにも周りは絶壁。つまりお手上げ。
 掴まれた手首を睨んで嘆息しかけ、

「なっ、さ、サタン様!?」

 しかし息を吐く間もなく抱き上げられた。
 白磁の肌、尖った顎が目の前にありルルーは慌てて身を捩るが、魔王は平然と彼女を放さない。
 赤く尖った爪を有する手にがっしりと捕らえられた肩が痛い。黒い翼が視界の隅に入る。

「ルルー、お前はウチの踊り子だ」
「まぁ、それは……そうですけど……」
「そして私の護衛だ」
「…………」

 手加減というものを知らないのか。
 やたらと強調してくる。
 一体何が言いたいのだ、この魔王は。
 抵抗を止めて上目に見ると、綺麗な紅眼がこちらを向いた。

「私は自分のモノは自分で守る主義なのでな」
 
 薄い唇の端が釣りあがり、鋭い犬歯が覗く。
 護衛の意味ないじゃないですか。
 突っ込もうと口を開くが考え直した。
 思えばこんな機会は滅多にないのだ、大いに利用する価値がある。うん、合理的。

「今日だけです、今日だけ」

 虚勢を張る事も忘れずに。今度こそ本当の溜息を吐き、ルルーは魔王の白い首筋に腕を回した。


 THE END



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