日記掌編

No 13. 白の誓言

 
 白い廊下にパタパタと乾いた音が木霊する。
 薄く透明な、しかし絶対的な静寂の中を楽しげな音が通り過ぎる。
 翻る絹服、この空間にあって悠然とした尊重さに輝く黄金、流れる青髪、口元には微笑み。
 白壁だけがその美麗を見送っていた。




「サタン様〜、おはようございます!!」
「……ここを何処だと思っている。病院では静かにと小さい頃習わなかったか?」

 勢い良くドアを開ければ飛んでくる軽い叱咤。

「そう細かい事は気にしないで下さいませ。サタン様だって昨夜は大暴れしたじゃありませんの。……注射が嫌いだとかなんとかで」
「…………」
 
 相も変わらず真っ白な部屋は、清浄さと妙な涼しさだけが取り得の空気に満たされている。
 その中にぽつりと居座る緑髪紅眼。
 視線平らに頬を膨らませて抗議すると、ベッドの上で怪我人が目を逸らした。

「お怪我の具合はいかが?」

 構わず持ってきたフルーツのバスケットを棚に置き、椅子に腰掛ける。

「ふん、これくらい大したことはない。掠り傷程度だ。それなのにまだ安静にしていろと言う」

 ――三日間意識不明で掠り傷?

 そっぽを向いたままぶーたれる男にルルーは苦く口元を歪めた。

 ルルーが遺跡の崩壊に巻き込まれ、彼に救われてから早五日。
 三日目の夜に意識を回復してからというもの、彼は異常なまでの回復を見せ今に至っている。それからは相も変わらずこの調子。

「良いじゃないですか。リモンは魔界の名医でしょう? 助手のカラドリオスも有能ですわ」

 口では別のことを言い、ルルーは押し黙った。

 ――魔界。

「私は魔王だぞ!? こんな所で油を売っているほど暇ではないのだ!!」

 絶対安静を言い渡された重傷者が勢い良く振り返ってきて、ルルーは目の前の男を改めてじっと見る。

 魔界。それはこの世界と隣接する別の世界。
 人外の者達が住まう秘境。
 この魔導世界は魔界の者達と人間が入り混じり、共に暮らしている。
 共生か対立かは別として、確かに自分達は共にある。

 そして彼は魔王。魔を統べる者。魔界の王。
 深緑の長い髪と紅い瞳。病的なまでの白皙、長身痩躯。
 一見薄倖の青年を思わせるほど薄暗くしかし白い病室が良く似合う男。今は病人らしく白衣を身に纏っているのだから余計に、である。
 だが切れ長の双眸は冷たく鋭く、頭の両脇から突き出た黄金の角。背に生えた黒竜の翼は、数日前とは打って変わって艶やか。
 魔王サタン。

 ルルーは極普通に口を開き、そして尋ねる。

「そんなに痛かったんですか? 注射」
「とっても」






 
 小さく開けられた窓から吹き抜ける風が白いカーテンを揺らしていた。
 
「……卑怯じゃないのか?」
「何がですか?」
「遊んでいるだろう」
「いいえー、滅相もございません」

 室内の空気とは違う生きた風が前髪を撫でる。
 ベッドの隅に縮こまり、やや涙目で訊いてくるサタンの問いにルルーが無表情で答えると、魔王の紅い瞳が忌々しげにこちらを睨んだ。

「何故お前がそんなものを持っているのだ」
「リモンから貰ったに決まってるじゃ有りませんの」
「……おのれ、あのヤブ医者……っ」
「何ですか? 今度は鎮痛剤が欲しい? それとも麻酔? 一発打って眠っておきますか?」
「すまん、私が悪かった」

 目を細くきらりと光らせ手元の銀ケースに視線を落とせば、サタンが冷や汗を流す。
 やや薄めの長方形。振ればかたかたと微かな音。
 サタンはぶつぶつと悪態を吐きながら斜め上を見やり、そして視線だけをルルーに向けた。

「……一体何を怒っている?」
「怒っているように見えます?」
「まぁ……な」

 平坦に訊くと視線が外され眉が寄せられる。
 魔王の端整な眉間に皺が刻まれ、銀ケースを見ていたルルーは溜息と共に青い髪をかき上げて翡翠の瞳をサタンに向けた。
 金の腕輪が薄明かりに輝く。

「別に怒ってなんかいませんわ。ただ……」
「ただ?」
「護られるのは趣味じゃありませんから」
「…………」

 振り返ったサタンの顔が一層渋みを増す。

「どうでも良い女一人を庇って動けなくなるなんて、王としては失格じゃありませんこと?」

 もう一度銀ケースに視線を落とし言うと、魔王がなにやら言いたげに口を開くが何も言わずに閉ざしてしまった。

「貴方は魔王。幾千幾万の魔族を率いていく存在でしょう」

 言いながらケースの蓋をぱかりと開ける。
 サタンが身構え体を強張らせた。
 が、構わず指を差し入れる。細身の果物ナイフを取り出してルルーがちらつかせると、サタンが紅い目を見開いた。

「女一人に振り回されていたら威厳も何もありませんわ」
「おま……っ」

 片手を額へ、絶望に呻くサタンにルルーはおどけたようににやっと笑う。
 彼女は籠の中に手を伸ばして膝に皿を置き、取ったリンゴをくるりと回してナイフの刃を入れた。

「あなたはより多くのものを見なくてはならない」
「ルルー、私は博愛主義ではないよ」
「それでも、あなたは護るべきものを弁えています。いいえ、弁えるべきです」
 
 ゆっくりと真っ赤な皮が不規則な長さと厚さで小皿の上に落ちていく。
 部屋を支配する沈黙に、実肌を滑るナイフの音が流れた。

「……慣れない事はするべきではない」
「……あっ」

 と、赤く鋭い爪の白皙がリンゴとナイフを取り上げ、ルルーが小さく声を上げる。
 器用に皮を剥いていく大きな、けれども細く青白い手。赤く尖った爪が不自然で自然。
 リンゴを見つめる長い睫の静かな紅。
 皮は途切れる事無く白いシーツの上に降りようと……、

「ナイフの使い方くらいは知ってます」

 が、その前にやんわりと取り上げる。

「危なっかしい」

 だがまたも抓(つま)まれ、

「あなたは私の保護者ですか」

 されど掴み、

「…………」
「…………」

 睨み合い。
 唇を引き結び翠と紅、鋭くぶつかる二つの視線。
 両側から掴まれ力を込められ、哀れなリンゴが小さく悲鳴をあげる。
 暫し無言の激闘を繰り広げ、延(ひ)いては遂に折れた。

「……強情者めが」

 魔王が。

 サタンがそっぽを向いて手を離し、ルルーは勝ち誇ったようにふふんと笑ってリンゴを剥きはじめる。

「私に防御魔法かけておきながら、何故自分にはおかけにならなかったのですか」

 深紅ドレスを剥かれ白く瑞々しい肌を露わにしていく果実。しなやかな指を果汁で濡らしながらルルーはサタンを見ずに尋ねた。
 サタンが身を硬くし目を見開く。

「魔導は発動と効果発揮の間に僅かなタイムラグができるものです。私を突き飛ばしたのはそれを配慮しての時間稼ぎですわね。……でなければあの状況下、私が生きている筈はないですものね。それも私はちゃんとあなたを掘り起こしてきていましたし」

 淡々と言う。
 薄い静寂。窓からは微かに風が流れ、それだけが少し暖かい。
 病室は白く外の光は届かず、生きている事を忘れてしまいそうな、空間。

「私は手足の掠り傷のみで助かり、あなたはこの通り大怪我ですか」

 赤く丸かったはずの白いでこぼこ果実を皿の上で切り分け顔を上げると、サタンは柳眉を寄せばつが悪そうに斜め上を見ていた。
 答えは、返ってこない。

「あなたはもっと冷静な方だと思ってましたわ」

 ナイフを皿の上に置き嘆息。辺りを見回すが布といえばシーツくらいで、仕方なくルルーは手を舐めた。
 魔王の視線が僅かに動く。

「お前が言えた事なのか」
「私は良いのです。護るものはありませんから」

 きっぱりと言う。
 サタンが口元を吊り上げて鼻で笑うが、ぴっと人差し指を立ててそのまま続ける。

「そこで許諾を頂きたいのです」
「許諾?」
「えぇ、私にあなたを護らせてください」

 手をにぎにぎと不快そうに眉を寄せ、少し考えてシーツで手を拭いた後、真っ直ぐと曇りなく見つめる翡翠輝石。

 
 ――僕らには何も言えませン。選択権は貴女ニ……。



 ルルーは口の端を小さく引き上げる。
 魔王がやや嫌そうにシーツを引っ張り、訝しげに顔をしかめ彼女を見た。

「傍に居るのに許しを請うたこと、今迄ありませんわよ」

 確認である。これは。
 ルルーは笑いながらリンゴの一欠片を抓み差し出す。
 歪な形の白い欠片とルルーの顔を交互に見やり、サタンが手を伸ばす、が、

「…………」

 ルルーは腕を上げてそれをかわした。
 むっとした表情で皿にも手を伸ばすが、そちらも片手で遠ざける。
 平たーく引き伸ばされた紅い瞳と目が合い、ルルーはにっこりと笑った。
 
 やがて諦めたらしく姿勢を戻して口を開けてくる魔王。鋭い犬歯が白く輝き、それでも気にせず、それどころか喜々として欠片を差し入れる少女。
 まるで獣を飼いならす猛獣使い。

「断ったら?」

 欠片を噛み砕き飲み下し魔王が問えば、少女が目を細くにやりと笑みを浮かべて銀ケースを軽く振ってみせる。

「即座にお注射ですわ」

 音などするはずはいが。

 平坦だった病室の空気にひびが入り魔王が噴出した。

「サタン様、私は本気ですのよ?」

 白い壁に反響する笑い声。
 説得力のない疑問符。それもそのはず、彼女自身破顔しているのだから。
 だがその言葉に偽りなどない事くらい魔王も解っているはずである。

「今後あの状況にあっても護られる方ではなく護る方になる、と?」
「ええ」
「人間の癖にか」
「だからですわ。人間って割りとしぶといものです」

 笑いを押し込め、サタンの紅い瞳が少女を映す。嘘も偽りも真実も、全てを見透かすような瞳。神が見過ごし、或いは見逃す偽りも、彼には知れてしまう。
 かの者は魔王。偉大なる権力者であり、神を見限った堕天使。
 見つめるのはただ一人の少女。気高く美しく、濁る事のない純真。
 真っ直ぐで手強すぎる格闘女王。

「ルルー」

 魔王に呼ばれ、微かに動いた彼女の瞳が輝きを増す。

「私は注射が怖い。だからお前の申し出を受け入れるだけだ。魔王とて弱点を握られていてはどうしようもないからな」

 口元に浮かぶ意地の悪い笑み。
 まるで試すように。
 今度はルルーが失笑する。

「ええ、宜しいですわよ。相手を力で押さえつけるのは人間の得意技ですから」

 腹を押さえ口元を押さえ、目じりに涙を浮かべて、

「ありがとうございます」

 それでも直向で純粋無垢な翡翠原石。

「サタン様」

 一呼吸の間を置き、ルルーが口を開く。

「私が居なくなったらあなたを護る人が居なくなります」
「…………」
「夜の宴で舞う者も居なくなります」
「それは……」

 口を開きかけ、しかしサタンはルルーから視線を逸らして天井を見上げた。
 静かな表情で。

「私は、あなたが良いというまでは死にませんから」

 少女の笑み、確かな選択。
 いつしか裏切られるであろう契約。しかし可能性を信じて彼女は突き進む。
 例えそれが背約に繋がろうとも。
 後で何倍もの涙を流す事になろうとも。
 彼女は格闘女王。常識さえも可能性という理不尽な拳で打ち砕く。
 彼女は――。

 
 紅い瞳の瞼が伏せられる。
 音のない時間が幾刻か過ぎ、魔王の薄い唇が動いた。
 甘美なテノールと共に零れ落ちる古い魔族語。

「承知した(ディゼーア)」


 THE END


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