『貴方のためなら、この命すら厭わない』
――生者はいつも死に幻想を抱く。
「……どうして……」
息苦しいほどの静寂に包まれていた。
壁も床も空気までもが白く、居心地が悪いくらいに清浄。
白いシーツ、白いベッド。
ぴくりとも動かないカーテンは呟きすら塗りつぶしてしまえそうな。
――全く、なんでこうなるのよ!?
ルルーは内心で悪態を吐いた。
石床を駆ける足は既に感覚を失っており、ほとんど反射で動いているようなもの。息が苦しく喉が痛い。頭に血が昇り鼻が熱い。心臓も脳もしきりに酸素の欲求を訴えているがそれに応えてやる事もできやしない。
耳を叩く轟音。
目の前が揺れるのは眩暈の所為ではなく、降り注ぐ瓦礫、砕ける足元の音も幻覚ではない。
確かに崩れているのだ、この遺跡は。凄い勢いで。
格闘家としての習慣と魔力開発の修行も兼ねて適当に入った遺跡。そこでまさかこんな大惨事に見舞われるとは思わなかった。
何か問題があったわけでもなく、すんなりと奥まで辿り着き台座に載った珠に触れた途端、コレである。
全くもって有り難くない。
一人で落盤石と追いかけっこなんて格好が付かない。
今更ながら連れを伴わなかった事を後悔する。
熱い呼吸。思考には霞。
青い髪が頬や首に纏わりつく。額からは辛い汗が頬を伝う。
流れてゆく灰色の景色、先の見えない深い闇。ぼやけた視界で何処を走っているのかさえ定かではなく、前に進んでいるのか、その感じすら疑わしい。
体に降り注ぐ破片や砂の痛みだけが生きている証明。
顔をしかめた瞬間足を取られつんのめる。
踏ん張って横転は免れ、しかし顔を上げれば落ちてくる天井。体が、動かない。
(もう駄目ね……)
視界を潰す影。
終わりとはなんと呆気ない。
眼を閉じれば瞼の裏に愛する人の後ろ姿。
(あの人を想いながら死ねるなら、本望)
口元には何時の間にか笑みがのっていた。
しかし、いきなり突き飛ばされる。
訳の解らないまま地面を滑り、手足を擦った痛みで気がつく。
瓦礫が落ちる瞬間――、
「…………っ」
目が合った。
「サタン様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴は絶望的な音に掻き消されていた。
「……どうして」
何度も掛けられる問い。
が、白い空間を漂う視線がベッドに移されても、横たわる男は答えてなどくれない。
柔らかく閉じられた瞼、生気なく青白い白皙。
そっと触れた肌は、冷たい。
「私の事嫌いだったんじゃないんですか」
病室には彼女の声だけが響く。
「私の事、邪魔だったんじゃないんですか」
力の無い問いは、答える者もなく虚空に消える。
冷たい空間。
シーツに血の染み一つでも付いていればまだ温かみがあったかもしれない。
「私の事……」
「ホントウにどうでも良かったと思いますカ?」
「…………」
しかし問い返された。
後ろから。
「インキュバス」
椅子の上で振り返れば壁にもたれ足と腕を組んだ紫の夢魔。
いつもへらへらと緩んだ口元は引き締まり、青み掛かった紫の瞳には何の感慨も見えない。
何時入ってきたのか、気配が読めなかった。
「ホントウに、貴方の事何とも思ってなかったと、思いますカ?」
もう一度問いかけられ、ルルーは死んだように眠る男を見た。
端整な顔、強情さを表すかのように尖った顎、優しい瞼は紅い瞳を隠し、しかし深緑の長髪から突き出る二本の角。
微かな胸の上下だけが未だ生きてる証。
――魔王。
彼女が一心に慕い、それでも受け入れてくれなかった男。
サタン。
「主は死にませんヨ」
魔王の臣下が呟く。
「アンタに……アンタに何が解るって言うのよ!?」
声が枯れていた。
嗚咽が漏れそうになって、しかし歯を食いしばる。
「なら、貴女にはナにか解るって言うんですカ?」
「…………」
膝の上で握り締められた手は白くなっていた。
サタンが瓦礫に押しつぶされるのを見た後、どうやって戻ってきたのかは憶えていない。
どうやって瓦礫をどけたのか。どうやって遺跡を脱したのか。
ただ、無我夢中で痛む体を、魔王の長躯を引き摺って辿り着いて、
――お願い! この人を助けて!!
泣いている事しか出来なかった。
「……主は死ねないんですヨ」
言った夢魔の声はあまりにも静かで。
――死ねない?
「首を掻き切ろうが心臓を抉り出そうが必ず戻ってきまス」
口調は相変わらずなのに、何故か恐ろしい。
「死も消滅も許されていないんですよ、主には。魂は何処にも行けないんでス」
インキュバスがルルーを見、そしてサタンを。
「魔族と人間が愛し合って幸せで居られると、本気で思いますカ?」
息が詰まる。
あの時、心の中でずっと叫んでいた。
――死なないで!!
「同族の事は同族がよく知ってますヨ。主は、そういう人でス。死を美化するのは、愚かだと思いませんカ」
咎めているわけではなく優しく流れるような声音。
過ぎた過去を何気なく語るような。
返す言葉が、見つからなかった。
インキュバスが少し顔を上げて天井を見、
「本気じゃなけりゃ、拒みませんヨ」
愛嬌だけはたっぷりな目を細くする。
「魔族だって、痛いものは痛いんですかラ……」
貴方のためなら死ねる。
そう言った時、魔王は何も言わず冷たく凍ったままの瞳で彼女を見つめただけだった。
じっと、見つめていただけだった。
この言葉があの人にとって呪詛でしかないのだと気付いたあの日、
「…………っ」
貴方のために生き続ける。
流れる涙に、そう誓った。
THE END
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