時は否応無しに流れ行く。 過ぎ去り崩れ壊れ行く。 抗う事の出来ない現実。この時は一瞬。安らぎは一瞬。 されど歩みを留める事もなく無意味に立ち去る時さえも、刹那を忘れ永久の差異を忘れさせる。 幸福(しあわせ)を畏るる事なかれ。 永遠なんぞこの一瞬に比べれば、一瞬。 △ ▼ △ ▼ △ ▼ △ 黒の襟元を正し帯の位置を整える。 不快のない嘆息と共に履き慣れぬ下駄の感覚を確かめながら彼は踵を返した。 外は恐らく夜半からの雪に染められているのだろう。高い塔の一室にでさえ白い静けさは滲んでくる。 絨毯の上でくぐもりながらも無機質な広間の静寂を裂く、音。 遥かなる海の彼方、東洋に在りし日出国(ひいずるくに)の正装に習い腰に挿した扇子を、確かめるように紅く尖った爪の白皙(はくせき)が撫でる。 立ち止まり、笑いの形につり上がった唇から覗く尖った犬歯。 一流の芸術家ですら掘り起こすのは困難であろう彫刻の指が高く佇む扉に掛かり――、 「Happy New Year! サタン様〜っ!」 ゴンッ 唐突に扉が開かれると同時。無邪気な声と共に無礼極まりない音が、鈍く玉座の間に響いた。 「……あら?」 塔の最上階。無駄に大きく重そうな扉をルルーが軽々と押し開けたとき、そこには誰も居なかった。 涼やかに移動する空気は寡黙な態度。壁の蜀台では炎が小さく揺れる。 「サタン様ぁ〜? ……いらっしゃらないのかしら」 扉から身を乗り出して部屋の主を呼ぶも返事はない。 冷たさだけを伝えてくる結晶質な広間で、ビロード張りの優雅な玉座に真っ直ぐと続く紅い絨毯でさえ色褪せて見えるのは、今朝の寒さ、それだけではない気がする。 「何処に行ってしまわれたのかしら。折角いつもよりも早く来たのに」 ぶつぶつ呟き、ルルーは床についてしまった着物の袖を引き上げ歩き出した。 数日前まではカーバンクルのぬいぐるみで埋め尽くされ、黄色一色だったはずの部屋。 整然としているそこは、何かに引っかかる事はなく、歩みは円滑。 絨毯の上で僅かに響く下駄の音は鮮明で、しかしにも関わらず袖をパタパタさせて頬を膨らませ口を尖らせるも、窘めの声一つしないのはどういうことか。 いつもならば、そんな顔をするなと苦笑交じりの声が聞こえてくるというのに。 はぁっと、うっすら白い溜息を吐く。 普段好き勝手遊んでいるウェーブの掛かった青い髪は、桜色のリボンで後頭部に纏められ揺れている。 お化粧にも気合を入れて、頬はほんのりと薔薇色に。瑞々しい青の濃淡が陽たゆたう海中を想わせる振袖は、臣下のミノタウロスに言って手配させた下ろしたてのオーダーメイド。 全ては今この時の為、滅多にしない早起きさえもしたのだ。 なのに一番最初に晴れ姿を見て欲しかった人――正確には人ではないが――が居ないのだから拗ねたくもなるというもの。 「だいたい、一緒に初詣に行く約束は? どうしていらっしゃらないのよっ」 白い明かりが物憂げに拗ねた不機嫌な声を響かせる。 立ち止まり腰に手を当てた嘆きの女王を畏れるように身を潜め空気が張り詰めた。 ――寂しさが怒りに変換されるとき、想像さえもあらぬ方角へと飛んでゆく。 無駄に高い天井も、豪奢な玉座も、頭上を飾る天幕も、立ち並ぶイカツイ顔した翼竜の像も皆知っているのだ。この女王様の恐ろしさを。 「はっ! もしや他に女が!?」 「……る、ルルー……」 ぐっと拳を結んだ瞬間、後方から響いたぎすぎすの男声。 翠緑の眼差しを点に、ぴくりと止まったルルーが恐る恐る振り返る。 その後ろで破滅を免れた翼竜像が、密かに安堵の溜息を漏らしたようだった。 「……っ」 「さ、サタン様!?」 引き攣った声を張りげるルルーは、やはり引き攣った表情。 そこには、閉められた扉に片手をやり顔面を押さえて蹲っている男が一人。 黒の着物に羽織。彼女と同じように東洋の正装だが、深緑長髪から突き出た黄金の双角と尖った耳、爪は赤く鋭く、白い指の間から覗く涙目は血のような紅。背負う黒竜の翼は隠されているが、間違えようがない。 魔王。 全知全能の神が創りし比類なき芸術。 神に背き地に堕ちた堕天使。魔の王。 知る人ぞ知る(知らない人は目と耳を疑う)彼はまさにそういう存在。 「ど、どうなさったのですか!? まさか何者かに奇襲を?」 「…………」 ――お前だ、お前。 そう言いたげなサタンの雰囲気。 だが駆け寄り彼を支えたルルーには解らない。 「い、いや……、大したことではない。ちょっと油断しただけだ」 「そうですか? あの、大丈夫……」 「だ、大丈夫だ」 しかしこの期に及んで怒鳴り散らさないのは、彼が出来た魔王……というわけではなく、ただ単に無駄な努力はしない性質であるからであろか。 若しくはプライドの問題。 曖昧に笑うルルーの肩を借り、不自然に真ん中だけ真っ赤になった顔を押さえながら、サタンがよろよろと立ち上がる。 「お気をつけ下さいませね? サタン様はこれでも魔界の王。何時何処で誰に命を狙われるか解りませんもの」 微笑む彼女は陽光の如く。 場の気温が一層低くなった、気がした。 「こ、心得ておこう」 口の端をひくひくさせつつ凍りついた笑いを浮かべる魔王。 彼は咳払いを一つ、襟を正し表情を改める。 その顔は若く、しかし凛然とした老成を乗っけて。 「所でルルー、今朝は早かったのだな。今から迎えに行こうと思っていたところだぞ」 「えええ、サタン様からお迎えだなんてそんな、いいですわよ。仰られずともわたくしからお伺いしますのに」 「そう畏まる事もなかろう。神社にはお前の屋敷の方が近いしな。……何はともあれ、行き違いにならずに済んで良かったが」 顔を紅くして手をばたばたさせるルルーに、サタンが苦笑で返す。 「それに、面白いものを用意してあるのだ」 そしてにやりと笑う。 首を傾げているルルーの手を取り、サタンは楽しげに扉を引き開いた。 重い音と共に、主を送り出すため安易に開く扉。部屋の明かりよりも一際眩い光が射し、なんの前触れもなしに振り返ってきた彼は、 「……その着物、似合っているぞ」 繋がれた手を握り返し、彼女は微笑んだ。正真正銘心からの笑顔。 ルルー。 魔王に恋するお嬢様。またの名を格闘女王。そしてまたの名を……暴走女王。 魔を統べる王にとって、真に愛すべき自覚ナシのトラブルメーカーである。 「遅いデス。サタン様……」 「すまんすまん、インキュバス。ご苦労だったな」 塔を出ると、出迎えたのは夢魔一匹。 緩く波描く紫の髪を優雅に伸ばし、スミレ色の長衣を着込んだは男は一体どれだけの時間そこに突っ立っていたのだろうか。 一見しただけで優男と言い切れる細躯を丸め、ぶるぶると震えていた。 「……凍え死ぬかと思いましタ」 ガチガチに冷えきったやや涙声。 普段、吹けば飛ぶような飄々たる態で魔王の傍に控えている男が、そして本当に吹けばナンパ目的で飛んで行ってしまう軽男が、目の下に厚化粧でも誤魔化せないクマをこしらえて重い空気を背負いつつ鼻をすすっている姿は、哀れを通り越して逆に笑えてくるものだ。 これで肩や頭に雪でも積っていれば完璧。 ルルーは思わず吹き出し、それでも爆笑を抑えて肩を震わせる。サタンは思わず吹き出しそうになったもののなんとか噛殺したらしく不自然に苦笑いを浮かべていた。 おそらくそれが王として臣下へのささやかな労わりなのであろう。たぶん。 「い、いや、まぁ、スマンかったなっ。色々と準備があって……」 「良いんでス、良いんでス。どぉせ僕は使いっ走り。マスターの我侭に付き合って、寝る間も惜しんで丸一日かけてアレを造り、やっと終わったかと思えば休む間もなく呼び出され待ち惚ける事約二時間。このびゅーてぃふぉーな銀世界を眺めつつ寒さに震えながら途方に暮れるのも下っ端の美徳。ああ、僕はなんて健気なサーバント!」 『…………』 こいつはこんなに捻たヤツだったろうか? 誰も居ない方角を向いて空虚に笑うインキュバス。体をくの字に必死で失笑を押さえ込むルルーの前で、サタンは新年早々寒いのに汗を流している。 首だけを巡らし悲願の眼差しを向けてくるが、ルルーは苦い笑いを返すしかない。 ――拗ねて雪の上にのの字を書き始めなかっただけマシ。 理解したのか、渋顔のまま視線が戻った。 「と、ところでインキュバス。例のものは準備できているんだろうな」 「えぇえぇ、できてますヨ、ちゃーんとできてまス。とっくのムカシニ」 会話だけはなんとなく小悪党的。だがインキュバスの投げやりな態度がぶち壊している。 恨めしげな視線を投げかけてくる臣下を、魔の王は一先ず無視する事に決めたらしい。先を目で促す。 紫色の夢魔は、やがて諦めたように肩をすくめ、体をずらしながら青みがかった紫の瞳を後方に流した。 血紅と翡緑がそれを追い、時瞬表情が固まる。 「こ、これは……」 「ちょっと、派手すぎないかしら」 乾いた笑いを漏らす二人。視線の先にあったのは、車輪の付いた座席が梶棒をはやした乗り物、いわゆる"人力車"というやつだ。 漆が塗られた車体は黒い光沢を放ち凛然と。二人乗りには広さも十分で、ご丁寧に屋根まで付けられ、しかし問題はその座席部。 薔薇で埋め尽くされているのだ。しかも一点の曇りも虫食いもない真っ赤な薔薇で。 「僕の造った物に文句つけるんですカ?」 『滅相もない』 ギンッと凄い形相で睨まれ咄嗟に口をそろえる。 いつも頭んなかに薔薇が咲き乱れているようなやつでも純魔族。キレたら何をしでかすか解ったものではない。 「ノープロブレムですヨ。使ってあるのは花の部分だけですカラ」 そういう問題じゃない。 とはルルーもサタンも言わない(というか怖くて言えない)が、これは目立ちすぎるし恥ずかしすぎる。断固として普通の物を、と言いたいところだが、なんせ相手が派手好きの目立ちたがり屋なのだから言っても無駄というもの。 「し、しかしこんな季節に薔薇とは、な……」 「僕の愛がこもってますカラ」 サタンの廃れきった呟きに、にっこり笑う目の下クマの優男。 こいつの頭ん中は薔薇が咲いている所か、春夏秋冬季節を無視して花が咲き乱れているらしい。 ……脳ミソも虫喰いでなければ良いのだが。 艶やかで高雅な花弁が溢れんばかりに、反射光を受けて瑞々しく輝く薔薇座席。絵画のような光景に、流石のサタンも眉間を押さえていた。 「ところでコレ、誰が引くんですカ?」 きょろきょろと辺りを見回しながら喜々と問うて来るインキュバス。ルルーとサタンは半ば諦めの顔を見合わせる。 そして二人同時に夢魔を見た。 口元ゆるゆるの男と目が合う。 「……え?」 じっと見る。 「…………」 たっぷりとした間の後。 汗をたらし自分を指さす男夢魔。 「僕、デスカ?」 サタンとルルーは間違いようもなく、しっかりと、確かに、頷いた。 凍てつく風がひゅるりと吹き、瞬間インキュバスの顔から笑みが消える。 「ええええ!? そ、そんな、僕は力仕事はめっきり――」 「他に誰が居るのよ? まさか、私に引かせるなんて男らしくないこと言わないでしょぉねっ!?」 「私が引くわけなかろう。何の為の二人乗りだ? なぁに、神社までたかが一時間程度。頑張れ」 「そうそう、それも下っ端の美徳、なんでしょう?」 反論する間も与えず舌を回転させる。 にっこり笑った女王様と王様に挟まれて両肩を押さえつけられ、四面楚歌な臣下は青い顔のまま「はい」と覇気なく答えるしかない。 断ったらどうなるか、彼らの手中に蟠る気と魔力の波動を思えば一目瞭然。 「マッタク、こんな仕事はミノタウロスにでもさせておけばいいのニ」 「ミノは風邪で倒れちゃったのよ。こんな時に引っ張り出すのも可愛そうじゃない。幾ら下僕でも」 「僕は寝不足で倒れそうですガ?」 「なに、風邪とは……大丈夫なのか?」 「ええ、じぃが看病してますわ」 「…………」 悪態を吐きながら踵を返したインキュバスに、勝利とばかりに互いの腕を打ち合わせてからルルーとサタンが続く。 尚も批難たらたらな夢魔の言葉はいともあっさりと無視されてしまい、インキュバスは目を細くして遠くを見つめていた。 彼の足が力車の前で止まり、そして斜めを見やる。 「えっと……」 こちらを見つつ呻いている。 どうして良いのか解らない。そういう表情。 因みに言うと、彼は礼儀作法に関しては疎い方ではない。 物腰は柔らかく紳士的ですらあり、女性をリードすることに関しては、一流。 ナンパ癖と浮気癖が無ければ、そして夢魔でなければ十分にモテたであろう。 が、知っていながら……迷っている。 「ルルー」 彼の言いたい事が解ったのか、苦笑しながらサタンがルルーの手を取り乗車を助けた。 インキュバスが安堵の溜息と共に汗を拭う。 「流石に僕も投げ飛ばされるのだけはもう……な、なんでもないデスっ」 乗り込む魔王の隣で女がばきばきと指を鳴らす。 夢魔はあからさまにぎょっとして飛び上り、梶棒へと駆けて行った。 「全くもう、どいつもこいつも……」 格闘女王には他人を投げ飛ばす癖があった。 女性は平気なのだが、問題は男だ。特に知らない男には容赦がなく、後ろから声をかけようものなら先制攻撃、街で道を訊こうものなら要注意。 学習能力ゼロの闇の魔導師なんぞは月に五回は投げ飛ばされ、ヤツのドッペルは自己防衛だとかなんとかのたまっては数メートル離れて喋るし、勇者は勇者で木の影に隠れたりする。 学園でも痛い目を見た学生――人間、魔族に限らず――は数知れず、ついたあだ名が暴走女王ときたもんだ。 頬杖をつき文句を言っていると隣の魔王に笑われてしまい、ルルーはますます口を尖らせた。 しかしこの愛する魔王様だけは格別なため、その癖を直す気などは更々無く寧ろ好都合。 「いきますヨ〜」 前方から夢魔の声が聞こえる。 緩やかな振動と共に人力車が動き出した。 △ ▼ △ ▼ △ 世界唯一の高等魔導学校、古代魔導学園。その周りに広がる街は種族、人種共に入り乱れており、祭事や祭式も様々なものが行われる。 特に正月ともなれば、みな内輪で好きな祭式に則り勝手気ままに過ごすもの。既に本来の意味を忘れ去られている気配すら漂っているが、何せ馬鹿騒ぎが大好きな街、誰も咎めることなどしやしない。 宗派や種族も関係ない、楽しければいいじゃないか。 真面目な肩書きからはかけ離れた不真面目。この街の常識であり自然体。 故にこの街は、最大の魔導師育成校を有しながらも世界から隠され護られ続けている。 「驚いたな……」 「えぇ……」 サタンの感嘆を聞きつつ、ルルーはこっくりと頷いた。 怒鳴り声と笑い声、そしてどこで覚えてきたのか朝っぱらから酔っ払いの音階外れまくった賛美歌。世の一神教司祭なんぞが聞いたら目まぐるしく血相を変えそうである。 否応なしに鼓膜を叩く喧騒。立ち止まる事の方が困難な混雑。気を抜けば肩をぶつけられ足を踏まれ弾き飛ばされる。手を繋いでいなければまともに歩くことすらままならない。 今年は日出国式の正月が流行っているのか、神社は着物を着た人々でごった返していた。 見晴らしが良かったのであれば積った雪の閑寂さと、神社の崇高さが相まってそれはそれは良い眺めだったろうに。 しかしその中を歩きながらも二人の感嘆すべき所はそこではなく、 《それでは、僕はココでお待ちしてまス》 《お二人でごゆっくり愉しんで来てくださイ》 《帰って来たら起こしてくださいネ?》 「……まさか立ったままで寝るとは、」 「――思いませんでしたわ」 言った瞬間笑顔を凍結させて寝息を立て始めた男の事。 夢魔という種族が立ったまま寝るものだということなど初めて知った。 「まぁ、ここに来るまでも十分驚愕的だったが」 「う……」 魔族の紅眼に横目で見られ、ルルーは言葉を詰まらせる。 鋭い視線が突き刺さって痛い。 インキュバスと人力車を残して鳥居を潜った彼らの道程は散々だった。 こんな風に二人で出かけるのも久しぶり。ご機嫌なルルーがいつもの如く妄想を暴走させ殴った樹からは雪の塊。道を塞いでいた石を蹴り飛ばせば落石に見舞われ、何故か地面から這い出てきたネズミたちの襲撃に危ないと突き飛ばせば柵を跳び越え薄氷の池にダイブ。 被害者はいつもトバッチリな魔王様。 「このオトシマエは後できっちりとつけてもらうからな」 その後平謝りしたにも関わらず許してくれないらしい。 執念深く、根に持つのが悪魔の性質。 魔王がニヤリと鋭い犬歯を覗かせる。 ルルーは思わず身を引くが、こういうときに限って固く繋がれた手は離れてはくれない。すぐさま傍へと引き戻され、ついでに腰にまで手を回されてしまった。 ……動けない。 恐る恐る見上げて問うてみる。 「ま、まさかカーバンクル人形を着ろなんて言いませんわよね?」 「あぁ、その手があった」 大変だ。ヤブからヘビが出てきた。 サタンがぱちんと指を鳴らす。 冗談じゃない。そんな恥ずかしい格好はいくらなんでも御免である。 ルルーが口を開きかけ、が、遥か向こうを見て制止。 次の瞬間には表情を生き生きと輝かせ、声をわくわくと弾ませて楽しそうな目を魔王に向けた。 「ほ、ほら、サタン様! 落石もネズミもあれに比べればマシじゃありませんの!」 「あ〜……」 彼女の指先を追ったサタンが気の抜けた声を上げる。 人ごみに紛れる袴の後ろ姿。 毎年この神社では弓道の催し物があるはずだが、巫女の放った矢でも飛んできたのだろうか、その背中には矢が深々と突き刺さっていた。 が、男は全く気付いていないようすで平然と歩いていく。 慣れとは怖いもので、正当な判断を鈍らせるものである。 サタンは暫く矢を背中にくっつけた男を眺め、 「……確かに」 呟いた。 「ふむ、今回はカーバンクルちゃんの耳だけで勘弁しておいてやろう」 「ええええ!!?」 何はともあれ、罪は軽くなったらしいが。 不服そうに叫ぶルルー。サタンが腰の扇子をぱっと開き口元を隠すが、隠蔽(いんぺい)された笑みが凶悪極まりないことなど目に見えている。 ぶつぶつと不満申し立てていると、腰は開放されたものの今度は腕を引かれてたたらを踏んだ。 「ルルー、拝殿へ行くぞっ!」 彼女の落胆などお構いなし。 扇子を道先に向け、堕天の主は喜々として歩き出すのだ。 「サタン様は何をお願いするのですか?」 銅貨を賽銭箱に投げ入れ尋ねてみる。 別に何かを期待していたわけではない、のだが。 「カーバンクルちゃんが帰ってきますように」 「…………」 ――訊いた私が馬鹿だった。 何故か涙が出てくる。 「サタン様、わたくし貴方のそういうところが大好きですわ」 手を合わせたまま目を輝かせて何処か別次元を見ている魔族の王。 ルルーは遠く視線を飛ばす。 小さく嘆息を漏らした後、気を取り直して拝殿の綱を取った。 前を見て一呼吸。 綱を大きく振ると先に付いた鈴が――、 ゴンッ 「?」 ――今の音、なに? 首を傾げてちらりと横を見る。 「〜〜〜っ」 魔王が頭を押さえて蹲っている。 別の方向を見れば人の頭くらいはあるだろう金色の丸い物体。 上を見れば綱の先には何も、ない。 「…………」 方眉を上げて目を細く。周囲さえも巻き込んだ沈黙。凍りついた空気。 魔王に視線を戻す。 「……大丈夫ですか? サタン様」 「さ、流石にこれは効いたぞ。見事だ、ルルーっ」 「私の技じゃありません。何で誉めるんですか」 鈴が落ちた。 汗を流していると、魔王が頭を摩りながら涙目を向けてきてルルーは目を逸らす。 これでは自分が虐めているみたいではないか。 「と、兎に角サタン様、泣かないでください。ほらほら、イタイのイタイの飛んでいけ〜」 「うぅ……」 しゃがんで角の間を撫でると相当痛かったのだろう、呻くサタン。 そりゃそうだ、あの鈴は見た目以上に重い。打ち所が悪かったら病院行き所じゃ済まされないだろう。たんこぶだけで済んだのが奇跡。 流石魔王と絶賛すべきなのだろうがしかしそれどころではない。 きりっとした眉は下がり気味。潤んだ紅眼に見つめられると困るし、なにより照れる。 どうしたものかと考えていると閃いた。 「そうだわ、おみくじ! おみくじ引きに行きましょう。ね? だから泣かないで、サタン様」 幼子を慰める仕草で手を叩き、微笑むルルーにサタンはこくりと小さく頷いてくる。 くすっと笑って抱きしめると、遠くで誰かの溜息。 何事も無かったように神社が動き出し、再び音で溢れ出す拝殿前。 はっとして普段凛とした態度で臨む女王様は魔王の手を取り立ち上がった。やや赤面気味。 「そ、それでは行きましょうか!」 「うむ」 照れ隠しに早口で言うと、機嫌を直したらしサタンはルルーの手を引いて踵を返す。 後方から聞こえてきた嘆きの絶叫は完全無視。早々と拝殿が遠退いていく。 その後姿に、一瞬きょとんとしてルルーは笑い出した。 「どうかしたのか?」 「いいえ」 さっきまでの泣きっ面は何処へやら、振り返ってくるサタンにルルーは軽く首を振る。 ころころと表情を変える目の前の男。 殴られようが騒動に巻き込まれようが文句を言いつつも笑っているこの男。 真剣なのか、それとも遊びなのか。 どちらにせよ、 「ただ……」 ――直向に、愛しい、と。 「何でもありませんわ」 いつかその表情が翳り笑顔を失う時が来るのだろうか。 言葉を押し込めるとサタンが訝しげに眉を寄せる。 「嘘はいかんぞ、ルルー」 振り返りくっと腰を曲げ顔を近づけてくる。 にやりと笑った紅い瞳。 ルルーの口元から明るい笑いが零れる。 「サタン様があまりにも表情豊かだから面白いだけ」 ふにっと頬を抓むと瞬時に笑みが引っ込み渋い顔。 女の着物が風に躍った。 「さ、早くおみくじ引きに行きましょう!」 立場逆転。 ルルーは腕を引っ張り走り出し、サタンが柔らかく目を細めた。 一歩を踏み出すごとに高くなるざわめきは熱さを増す。 拝殿の直ぐ隣にあるくじ売り場も、やはり人々でごった煮。 白い着物に赤い袴、巫女姿の女達が忙しく参拝者にくじを引かせて回っており、一瞬顔を見合わせた二人も押しつ押されつしながら列に並ぶ。 くじを引いて、なんとか人ごみから這い出してきた。 そして同時に折りたたまれた白い紙を広げ、 「!!?」 「…………」 歓喜の声をあげるルルー、その隣で呻くサタン。 彼は眉間に長い指の手をやり、疲れた表情で訊いてくる。 「ルルー、どうだった?」 「大吉です! サタン様は?」 「…………」 広げて見せるとサタンは細目で暫しそれを眺めた後、何も言わずに自分のくじを丁寧に折りたたみ始めた。 口を開きかけたルルーだが、言葉を飲み込む。 光に透けた紙切れに『大凶』や『女性難』の文字が見えた気がしたのだ。 魔王が紙を結び付けるのを見上げていた彼女は、やがて自分のを折りたたみ木の枝に手を伸ばす。が、届かず。眉を寄せてぴょんぴょん跳ねていると赤い爪の白皙が紙を取り上げて隣に結んだ。 「何も同じ枝に結ぶ必要はなかろう。もっと低い位置にも枝はあるぞ」 「サタン様の隣が良いのです。隣にいれば幸も不幸も半分ずつ」 苦笑を向けてくるサタンに、ルルーはにんまり笑う。 視線を移せばたくさんの白を咲かせた枝の中、遠くの蒼空に包まれ仲良く並ぶ二人のくじ。 彼女は満足そうに頷き再びサタンの解顔を見上げた。 「もう少し神社内を歩きませんか?」 「そうだな。少々喧しいが遊歩を楽しむには申し分ないだろう」 他人の行動を観察するのもなかなかに楽しいもの。ここまで人が多いと歩きながらも飽きる事は無いだろう。 二人の手は自然に繋がれ足取りは大衆の中に溶け込んでいった。 ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ 高く昇りつめた太陽も高度を下げ、溶けはじめた雪だけが寒そうに輝いていた。 神社も初詣を終えて家路につく人々の方が多くなってきたらしい。 まばらになり始めた人波に逆らって歩いていると、黒髪の巫女が日出国の礼法で軽くお辞儀をしてきた。 ルルーは着物の裾を抓んで小さく腰を折り、サタンも胸に手を当て敬意と労いを示す。 違う国の違う作法。しかし礼儀は礼儀であり、敬意は敬意。 互いが互いを尊重し、重んじる。国が違う文化が違う遣り方が違うと、顔をしかめ憤慨するのは最初だけ。 巫女もにっこりと微笑を残し二人の横を通り過ぎて行く。 「平和なものだな」 曖昧で危ういながらも保たれた均衡は一体どれだけの年月を掛けて息づいてきたのだろう。 巫女の後姿を見送りながら見つめる現在(いま)にサタンが呟いた。 「退屈ですか?」 「いいや」 訊くと柔らかい笑いが返ってくる。 こうしていると彼が魔王であることなどすっかり忘れてしまいそうだ。 黄金の角も、紅玉の輝きも、肢体に積み重ねられた星霜(せいそう)も、確かにそこにあるというのに。 生き続ける時のずれ。それは確かに。 「……ん?」 溜息をつきかけたルルーだがサタンの声で我に返る。 顔を上げ遠くを見つめた紅い瞳が、僅かに見開かれていた。 視線を追って振り向けば、 「アルルと、シェゾ……?」 人ごみの切れ間に見えたのはルルーの、いや、二人の良く知る人物。 桜色の可愛らしい着物に身を包んだ柔らかな鳶色の髪と瞳、魔導師の卵、アルル・ナジャ。 そして微妙に似合っていない袴を不服そうに着た銀髪蒼眼、闇の魔導師、シェゾ・ウィグィィ。 声は遠く、雑音に掻き消され聞こえない。アルルが手に持った巾着を振り回しつつ口を動かせば、隣のシェゾが面倒臭そうに答えている。口元には微かな笑みが浮かび。その横でいつも以上に豊かな表情で笑顔を振りまく少女魔導師。 強大な力と類稀なる才能を有する魔導師の少女。純粋さ故に、無垢さ故に、強さ故に、人も魔族も惹き付ける魔導の少女――アルル・ナジャ。 「やはりアイツだったのだな」 ――アイツだったのだな。 すぐ傍の頭上で聞こえた声にルルーははっとした。 「違います! きっとアルルは無理矢理シェゾにっ」 考える前に口走っている。 凍りついた翠眼が見る先には大きく見開かれた男の眼。 小さく声を漏らし、ルルーは視線を雪に落とした。 踏みつけられ固められ、茶色く濁った雪。 「……ルルー」 吐かれた息。 腕を引かれ、抵抗虚しく引き寄せられる。 肩に手を置かれ、 「何を考えた?」 柔らかい、しかしそれは確かに強い叱咤。 「まだ私を信じてはくれないのか」 「……私は魔族になれません」 首を振り、見上げれば音なく視線を合わせてくる深紅。 「私には魔力がありません。ですから半魔族になることさえ、命を永らえることさえもできません。普通に年を取り普通に死んでいきます」 「…………」 「でもアルルなら或いは――」 「ルルー」 彼女の言葉は彼の嘆息によって閉じ込められた。 長い緑髪の奥、一度閉じられた紅い瞳が開かれる。 切れ長の双眸は何処までも深く鋭く、縦長の瞳孔が深遠夜霧のように彼女を捕らえ、そして楽しげな光を湛えて逸らされた。 「……あ」 つられてそちらを見ると間の抜けた声が漏れる。 途端、理解したのだ。 「全く、アルルも気付いているのなら教えてやれば良いものをな」 「ほんとう……に……」 喉の奥で笑うサタン。呆然と少女魔導師の隣に陣取る銀髪男を眺めながら、ルルーは笑う事も嘲る事すら忘れていた。 代わりに怒りに似た感情が湧き上がってくる。 「普通刺さった時点で気付くでしょ……!? あの矢鴨っ!!」 眩暈がしてこめかみを押さえた。 背中に破魔の矢をくっつけた闇の魔導師は周りからの好奇の目にさらされていた。 擦れ違っては振り返る人々、遠くで口元を押さえる魔族達、アルルも気付いてはいるのだろう、しきりに矢に視線を走らせてはいるが……。 よもや奴があそこまで運に見離されていようとは。 これでアルルにまで見離されたら、などとはあまり考えたくない。 「弱気などお前らしくないぞ」 遠くの眼差しに微笑を乗せたままサタンが言う。 「これはお前の選択だ。そして同時に私の選択でもある」 「…………」 「アルルに対する気持ちは恋愛のそれとは違うのだ、ルルー。それに私は、」 一呼吸の間を置いて、 「全てを許容する事に決めたのだよ」 細く長い指が滑り降りていく。 背に回された腕に腰を捕らわれ、抱きしめられる。 手が頬に添えられ、そして顎にかけられて彼の方を向けさせられる。 視界の遠くでアルルとシェゾがこちらを見た、気がした。 「失ってきたものも、いずれお前を連れ去るであろう時の流れも」 違える事無く見つめてくる紅い瞳。 背後には遠く淡い青。 「これは罰であり、慰め」 聞こえてくる歌声や笑い声。 だがそれらは遠く、魔王の中には届かない音と知った。 世界の中心にあってこの男は孤独なのだと感じた。 「逃げるな、ルルー。……抗うな」 重ねられた唇は悲くなるほどに冷たかった。 その存在こそが罪であるかのように。 魔王。 背徳の王。地獄の使。 「サタン様!」 「逃げるなと言っている。畏れるな、ルルー」 ついばみながら言ってくる。 優しく、柔らかく。 壊れ物を包むように、深い傷を癒すように、折れた翼を労わるように。 深く、抱きしめてくる。 「手放しはしない。逃がしはしない。お前は永遠に私のものだ」 魔族と人間。 されど、 「私は永遠にお前のもの。背約は、赦されない」 永遠は一瞬。しかし一瞬は永遠。 世界を背負わされ世界に裏切られ、傷を負いながらそれでも泣き様一つ見せないこの魔王に、ルルーは心の底から戦慄した。 魔族の王。伊達ではなく、名ばかりではなく、この男は正真正銘に強いのだと、そう思った。 「神は、誰をも救いはしないのだよ。生も死も、祈りもなにもかも……」 何故彼が、天において崇高たる最高傑作であった彼が神を見限り、美しい肢体を地に堕としたのか、自ら望んで背徳の色に染めたのか、解った気がした。 襟元が広げられ口付けが首筋へ降りていく。 淡雪のように白い肌を吸われ、優しく食まれる。 微かな水音に魔王の小さなしかし熱い吐息が重なり、鎖骨に牙があたる度軽い痺れが奔った。 ――サタン様を愛した者は決して幸せになれないんだよ。 「何故、私は人間なのでしょう……?」 首筋を明け渡しながら何時の間にか閉じていた目をうっすらと開いて問う。 惜しげもなく注がれていた愛撫が止み、魔王が覗き込んできた。 「さぁ、な……」 悲しげな微笑と共にもう一度深く口付けられた。 「そろそろ戻るか」 長い口付けから開放されると同時にぎこちない声。 髪を弄んでいた指が、腰に回された腕が、体が離れたくないと言っているのに。 「そ、そうですわね……」 思い出してしまった。 「…………」 「…………」 周りの注目を集めていた。二人とも。 先ほどの闇の魔導師以上に。 肌蹴た着物をいそいそと調えていると羽織を肩に掛けられる。 引き攣った笑みを振り撒きながら、手を取り早足で歩き出した。 首を巡らして人々の隙間を見れば、立ち去っていくシェゾとアルルの後姿。彼らの手はしっかりと握りしめられている。 「ルルー」 「は、はい?」 名を呼ばれ振り返る。 先には真っ直ぐ前を見据えたサタンの横顔。 「お前は私が掴まえていなければ何時何処で人を投げ飛ばすか解らんからな」 「…………」 呟くように言われ、ルルーは目の前を歩く魔王を見つめた。 手には、冷たいが確かな温もりと感触。 「サタン様」 「うん?」 つながれた指に小さく力を込め、肩に掛けられた羽織を片手で握りしめて呼ぶと、振り向かないまま。 彼女は静かな微笑を唇に乗せ、 「私は貴方を愛してます」 サタンの目がこちらに向き刹那の後に、笑った。 「私もだよ、ルルー」 これからも、宜しくお願いします。 FIN どーでもいいあとがき: 実は書いたの、一年前です。 とは言っても、某方から年賀状を貰って思いついた話なので、当時はプロット立てで一月が過ぎてしまったという……。それからなんだかんだ、完成したのが結局八月。 そんなわけで、今回アップすることになりました。サタルルでラブラブです(笑) この二人、ギャグやらせてもシリアスやらせてもおもしろいから好きだな。 弄られるのは大抵インキュバスだけど。 今年は頑張っていきたい……なorz 誤字脱字ありましたらお知らせください。 2008.1.2 執筆BGM GARNET CROW「君 連れ去る時の訪れを」 Short Story (C)Sinobu Kaguruma |