ラグナス誕生日小説

【4月の魚】


 金色の陽射しが勇ましい四月の始まり。
 例外なく、万物に濃く影を落とさせる太陽は、しかし木々の間をぬって白い穏やかさに変化する。
 薄暗い森を照らし、砂利道を照らし、緩やかに流れる川を照らし、そしてその奥にぽつりと建つ道具屋を、柔らかく包み込む。
 

「はぁ〜」

 木漏れ日差し込む部屋の中、カウンターに突っ伏したままの少女が深く溜息を吐いた。
 金色の長い髪は無造作に跳ね、青い瞳は虚ろをすぎて何処を見ているのか解らない。

「暇ですわ」
 
 本日何度目かの、それも同じ呟き。
 側に置かれた三角帽子がくったりしおれている。壁際に並んだ棚、空いたスペースを埋めるように置かれた台にも薬草や薬、魔力のこもった宝石などが並び客の来店を待ちわびているが、ご覧の通り。魔導学園目下いくら魔導を知り尽くした街の一郭とはいえ、ここは人里離れた森の中。黒いローブを纏った修行中見習い魔女がたった一人で切り盛りする小さな店は今日も――

「っ、いらっしゃ……!」

 ドアのベルが鳴った。
 魔女の少女、ウィッチはがばっと跳ね起きる。大きな目が溢れる光に来訪者の影を認め、

「あ、なんだラグナスさんですの」
「なんだとはなんだよ。失礼だなぁ」

 張り上げた声から脱力。再び椅子に腰を沈めた。 
 ドアが閉まるのと同時、白陽が退き現れたのは若い男。薄暗い店の中ですら一層黒い髪。苦笑いの目元は穏容で、見上げた者の目を灼く太陽のような黄金の鎧さえ彼には大人しく着られている。
 ラグナス・ビシャシ。
 彼女の店をギリギリ保たせてくれている数少ない常連の一人。

「今日も閑古鳥?」
「はっきり言わないでくださいませ」

 はずみで落ちた魔女の帽子を拾い上げ、店内を見回した後ラグナスはカウンター前の椅子を引く。誰も座らない椅子は、言ってしまえば彼の為に用意されたようなものだ。
 伏せたまま、ウィッチはななめにむくれた。

「それで〜、今日はどのようなご用ですの〜」
「何そのダラケかた」
「だってぇ、ラグナスさんしか遊びに来る人いないんですもの〜」
「あの、一応俺客……ってねぇ聞いてる?」

 倦怠を背負ってぐりぐりと呼び鈴を弄る。
 見上げれば困った眉の黒眼が可笑しそうに覗き込んでいた。
 にんまり笑って半身起こす。

「じゃぁ何か買ってくださいませ」
「そのつもりで来たんだって」
 
 立ち上がり後ろの棚から品物を二、三取り出していると、当然でしょというような声。
 ウィッチはわざとらしく指を立てる。

「買い物をする以外にここに来る用事はない、ですって?」
「え、あ、いやそれはっ」
「今からまた発たれるのでしょう? 帰ってきたばかりでしょうに大変ですわ、はいこれが今日のお勧めです」
「あ、あ、あぁ」

 いつもの事だがラグナスの反応は面白い。普段は慎ましくおおらかな態度の彼。それが慌てふためく様に、魔女は小さな満足を得るのだ。
 軽快に向き直り、頬を掻いているラグナスの前に品物を散らしにっこりと笑った。拍子抜けて顔が引きつってる男を余所に、椅子へ腰掛ける。
 そして店主の態で品物を手に取った。

「これはガルダの羽根。南の山脈に住む霊鳥ガルダから譲り受けたものですわ。ナーガ族の天敵である彼の羽根には回復と解毒の作用があります。そしてこれは東洋から直輸入した勾玉。鬼の魂が封じられているそうで、悪しき気を喰らい浄化します。戦いのお守りとして――ラグナスさん?」
「え、あ、なに?」

 ウィッチはラグナスを見た。
 いつもなら覗き込み相づちを打ってくる彼がはっとした顔を向けてきて、彼女は眉を寄せる。
 

「どうなさったんですの? ぼーっとして」
「ぼーっと、してた?」
「してましたわ」

 自覚がないわけではなく、ゆえに返答に困った。そんな言い方だった。
 ウィッチはきっぱりと言いカウンターから身を乗り出す。
 まったく、また何か思い詰めているのかこの人は。

 ラグナスは世間一般の目からいう、いわゆる"善い人"である。
 悩むのも真剣になるのも他人のため。
 ウィッチの周りではかなり珍しい種の人間。
 だからきっとまた……。

「なんでも、ないよ」

 目を逸らされた。

「わたくしには力になれないことですの?」
「こちら側の問題だから。力を貸してもらうわけにもいかない」

 深い溜息の後に言うと返ってくる気まずそうな答え。
 こちら側。
 何も言えずに俯いてしまう。

「それ全部貰うよ」

 顔を上げるといつもと違わないほころび。だがうっすらと射すのは迷いを振り切った強い意志。
 何故か不安を覚えるほどの。

「代わりに一つだけ、頼みを聞いて欲しい」


□ ■ □ ■ □ ■


 真っ青な午後の空は高く。耳元を通り過ぎるせせらぎ。
 小さな川を渡る橋の欄干に、ウィッチは腰掛けていた。
 手には清楚な白い花。

 帰ってくる、帰ってこない、帰ってくる、帰ってこない、帰ってくる――

 一ひら一ひら指でちぎり風に乗せる。



「わたくしの身につけている物、ですの?」
「うん、できるだけ重要じゃない物。特になくても困らない物がいい」

 自分の身につけている物を一つ貰いたい。突然言われても困惑するしかない。
 今まで着飾るようなことはしたことがないし、今だって最低限のものしか身につけていないのだ。それも男であり剣士であるラグナスには役立ちそうにないものしか。

「いや、拙いならいいんだ。ただ言ってみただけだし」
 
 居心地が悪くなったのか、小さくなる声。
 おかしい。何故こんな事を言い出すのかわからない。ウィッチ自身がラグナスに持物をねだることはある。大抵売り物になりそうなものだが。しかしその逆などこれまでなかったのだ、それが今日に限って。しかも店の物ではなくウィッチ自身の持物を、何故。
 大体これではまるで戦場に赴く兵士――

「じゃぁ、俺そろそろ行かなきゃ。これ、代金ね。おつりはお店の足しにでも、」
「戦争」
「…………」
「が、起きるんですのね。あちらで」

 置かれた革袋から視線をあげる。

「魔族との」

 揺らいだ黒眼がこちらを見、しかし直ぐに外された。

「俺の世界はこことは違うから」

 ガイアース。それが彼の生まれ育った世界の名。この魔導世界とは別の次元に存在する異なる世界。
 些細ないざこざはあるにしても魔族と人間が微妙なバランスを保ち共存しているこの世界に対し、ガイアースは完全に覇権が二つに分れているのだという。絶対なる神の子たる人間、そして神の宿敵たる魔族。互いに相容れず、認め合うこともせずにぶつかり合い延々と繰り返される戦いの歴史。
 ラグナスは、彼はその世界の神に、そして人々に選ばれた人間の勇者。
 いつかこの日が来るだろう事はわかっていた。彼はこちらがわの者ではないことも理解していた。だから彼の帰郷を感じるたびに恐れていた。

「もう、戻ってこないつもりですの?」

 重要じゃなく、なくても困らない物。つまり返さなくても良い物。
 ガイアースの事情もあの世界の神とやらがどういう存在なのかも、この世界で生まれ育ったウィッチには想像がつかないしわからない。
 だが一つだけ理解できる。

「軍に入れって、誘われた。故郷の人たちも喜んでる」

 相容れないのだ。自分と、彼は。
 魔族に属する魔女と人間の庇護者である勇者では。
 少なくとも、彼の世界では受け入れられない。受け入れてはならない。
 この世界にも少なからず存在する掟。だからこそ理解できる。
 『魔は必要以上に人間と関わってはならない』
 ましてや異世界の人間になど……。
 
「王国の?」
「うん」
「王国に身柄を預けるんですの?」
「そういうことになる」

 その名も話に聞いただけなのだが。彼の世界で人間社会は代々続く一つの王家を中心として纏められているのだという。
 つまりその軍に入れば今まで以上に多くの情報を手に入れることができ、一番近いところで愛すべき人々を、世界を護ることができるのだ。
 しかし同時に、王国の管理下に置かれるということは今までのような自由は許されなくなるということ。
 この世界にも、もう……。
 寧ろそれ以上に彼が戻りたがらないだろう。

「ラグナスさんなら騎士団長かしら。あ、斬り込み隊長ってのもあり得ますわね、一人で突っ走るから」

 短い沈黙を破り真顔を和らげ、おもむろにウィッチは立ち上がった。
 ラグナスの前に立つ。
 長いローブの裾が灰色の石床で埃を払う。
 
「でもきっと、みんなの信頼を強く受ける人になりますわ」

 自分の首筋に手を伸ばす。

「ウィッチ」
「良いことじゃないですの。護るべき者達のために戦う。やることは同じですわ、身を置く環境が違うだけで」

 一歩踏み出し彼の襟首に腕を回した。

「それは以前からの、あなたの使命であり望みだったのではなくて? 確かにお客さんが減ってしまうのは先行き不安ですけど」

 僅かな逡巡さえも破り捨て、腕を解く。
 指先が、声が震えないようにするのに必死だった。

「それ、さしあげますわ」
「え、でもこれはっ」
「いいんです」

 首にさげられたものをラグナスが見下ろす。
 炎の赤、水の青、草木の緑、光の黄……幾多の色が幻想の鎖で結ばれ絡み合い遊ぶ平衡の石。
 質素な装飾を纏ったオパールのペンダント。
 ラグナスの言葉を遮り、ウィッチは首を横に振る。

「さしあげます。あなたに」

 見上げた先には戸惑った表情で口を開きかけた青年の顔。
 有無を言わさず続けた。

「オパールは太陽の光に非常に脆いですわ。かざしてしまうと輝きを失ってしまうかもしれません。お気をつけてくださいまし」
「わかったよ」

 道具の使用注意をする調子。
 何を言っても無駄。
 諦めたように息を吐き、ラグナスはペンダントを懐にしまう。

「それから、これも」

 カウンターの隅に置かれた花瓶。その中から一輪取り、ウィッチは彼に手渡した。

「マーガレットか」

 黄色い芯の白い純真。
 強くも可憐な花を見つめた目がそのままウィッチに向けられる。

「ウィッチみたいだ」

 小さく笑った。気取るでもなくただ思ったことを口にした。そんな感じ。
 どう返していいかわからなかった。いつもなら調子にのった言いぐさの一つや二つは出てくるのに。
 ウィッチは小さく口を開けたまま言葉を探す。

 引き留めたところで無駄だろう。
 やらなければやられる。存続を、そして世界を賭けた戦い。彼の力なくして人々の未来はないも同然。あの世界の人々全ての想いが彼の肩に乗せられているのだ、なんて重い使命。
 しかしそれで弱音を吐いたり、行きたくない戦いたくないなどと本音を零すような人ではない。けじめの付け方くらいは知っているはずだった。
 自分の想いよりも、一人の友人よりも、大衆を重んじる人。
 彼はこの世界に羽根を休めに来た旅人にすぎず、だがこの世界で知り得たことは彼の重荷になってすらいる。
 独りよがりな感情にかまけた言葉を投げかけてしまえば、彼は悩み苦しむだろう。だからこそ探した。言うべき科白を。
 たとえそれが、(異世界の者たちとはいえ)自分の同族を手に掛ける使命を、彼に与えてしまうものだとしても。

「ラグナスさん」

 呼べば白花を眺めていた彼がこちらを見る。

「花は、いつか枯れてしまいます。輝かしい時間もいつしか色褪せ思い出となります。あなたはあなたのするべき事を」

 忘れろと言えなかったのは弱さか。ただ生きていて欲しいのは我が儘か。
 一瞬息が詰まったのも気付かないふりをして、ウィッチはゆっくりと言葉を紡ぐ。
 ラグナスは何度も頷いていた。

「わかってる。解ってるよ、ウィッチ」

 いつもと同じ、優しい目だった。
 別れには慣れている。――嘘つきの目だった。

 
 ……結局、住む世界が違ったのだ。





 帰ってくる、帰ってこない、帰ってくる、帰ってこない、帰ってくる、帰って――

「…………」

 溜息を吐き花を投げ捨てる。
 花弁を一枚だけ残した花は弧を描いて水面に落ち、流れに乗っていく。その小さな点が見えなくなった後も遠くを眺め、

 ウィッチは欄干から飛び降りた。


□ ■ □ ■ □ ■

 
 白灰の床に靴底がつくと同時に影が落ちる。
 見渡せば飾り気のない石造りの部屋、その一郭には何故か木造りの物干しみたいな物体。
 この塔の主である女性がなにやら楽しげに魚をぶらさげている。
 
「なにをなさってるんですの、おばあちゃん」

 愛用の箒を手にしたまま半目で問う。
 塔主の、おばあちゃんと呼ばれるにはあまりにも若すぎる相貌が瞬時にこちらを向いた。

「あらウィッチ、いらっしゃい」

 長い髪はプラチナ。こぼれる花王のような暖かい紅瞳。
 ウィッチの少し歳の離れた姉で十分通じる容姿だが彼女も魔女。大して珍しい光景ではない。

「今日はお魚がたくさん捕れるのですよ。それで干物を作っておこうと思ったのです」

 のんびりと言われ、ウィッチはもう一度それを見る。
 ……物干しだ。確かに。

「洗濯バサミで?」
「あるものを使うにこしたことはありませんよ。生活の知恵も魔女には必要なのです。後で分けてあげますねぇ」
「え、えぇ」

 吹き抜けの窓が誘い入れる光と、湿気の少ない風を受けながら朗らかなうら若き祖母。
 ぎこちない笑みを漏らすウィッチを、ウィッシュは思い出したように振り返った。

「今日は用事があるのではなかったの、ウィッチ」
「いえ、もういいんです」

 少し躊躇って言うと、孫想いの祖母は首を傾げる。

「ですが今日はお友達のお誕生日だとこの前、」
「ええ、でももう済みましたわ。お花をさしあげてきましたの。……本当は鉢植えにしたかったのですけど、お邪魔になりそうだったので一輪だけ」
 
 今度こそきっぱりと言った。祖母の顔はまともに見ることができなかったが。
 じっとこっちを見ていたウィッシュだったが、次にはそうですかと微笑んだ。思い遣り深いおばあちゃんな眼差し。
 ウィッチはぱっと彼女を向く。

「なにかお手伝いすることはございませんの、おばあちゃん」
「お手伝い?」
「ええ、特にやることもないですし、気晴らしにと思って来たんですの」

 思わず早口になってしまったのは失敗だったかもしれない。
 しばし考える仕草をしたウィッシュが困った笑いを浮かべる。

「今の所手伝って貰うような急ぎの用はないのですよ」

 聞くなりしゅんと項垂れかけるウィッチ。

「その代わり、」

 しかし彼女の祖母はやんわりと声を高くした。
 瑞々しい唇が三日月をつくる。

「ウィッチが作りたいものを私が手伝ってあげましょう」

 意外な申し出だった。
 つい祖母を凝視してしまう。

「わたくしが作りたいもの」
「何かありますか」
「……忘れ薬」
「忘れ薬?」

 考えていると衝いて出た。それ以外に思いつかなかったというのもあるが。
 ウィッシュは目を丸くしている。

「だめ、ですの?」

 俯き上目遣いに言うと、魚入りの籠を置き祖母の静かな解顔。

「ウィッチが望むなら」

 淡い貫禄。華美な礼容。
 伝説の魔女。
 その後ろには何匹もの吊られた魚。
 彼女は何も訊いてこなかった。





「この薬は記憶と共に精神の一部をも破壊してしまう劇薬です。使い方には十分に気をつけること」
「わかってますわ」

 いくら魔女とはいえ、見習いには薬一つ作るにも一苦労。特に初めて手掛ける物に関しては積まれた書物に目を通して記述を見つけ、見るだけで別次元へトリップしそうな暗号じみた文章から作り方や材料を学ばなければならない。でなければゼロから研究と実験を重ねて作り出すか、だ。
 幸いウィッシュの助言やヒントを得、材料探しこそ手間取ったのの昇った月が傾く頃には薬が完成していた。

「後はちゃんとした効果が出るかを験すだけ、ですが……」

 ウィッチは手の中に収まるっている小瓶を見下ろす。
 森の中を駆けずり回り集めに集めた薬材を煮詰めてできるひとしずく。
 時を凝縮させたような僅かな薬。

「使うのですか?」

 これに魔法効果を加えてやれば消せる記憶も自在になるはず。だが、

「いいえ」

 相変わらず柔らかなウィッシュの声。ウィッチは首を振った。
 揺れる灯火に照らされた顔をあげる。
 
「薬には、頼れませんもの」

 真っ直ぐ祖母を見る。

「そうですね」

 細められたウィッシュの目元。
 あなたのことは良くわかっています。そう言われているような。
 自然と笑みがでた。
 ウィッチは薬を握りしめ、

「それではおばあちゃん、わたくしはこれで」
「ウィッチ」
「はい?」

 お辞儀を一つ、ひらりと箒に飛び乗る。
 呼ばれて振り返ると、ずいっと突き出される麻袋。その向うには祖母の満面笑顔。
 
「お土産です」

 礒の香りに少しきつい魚の臭い。袋いっぱいに。
 ほふっと可笑しい息を漏らし、ウィッチはそれを受け取った。

「ありがとうございますわ」
「夜道は気をつけるのですよ。凶暴な魔物も多いですからね」
「わかってますわ。……おばあちゃん」

 もう一度振り返る。
 労りの優しさに溢れた紅い瞳に振り返る。

「一度、おばあちゃんにも会わせてみたかったですわ」

 一呼吸置いて呟き。
 ほんの少し寂しげな瞳でウィッシュは胸に手をあてた。

「ええ、おばあちゃんも会ってみたかったわ、ウィッチ」



□ ■ □ ■ □ ■



 地の緑を踏む度に特異な匂いが強くなる。
 靴下で鳴る微かな音と共になじみの草香が弾けて散る。

 さほど高くない山の中腹、切り取られたように開け平坦になったそこは薬草香草集う秘密の場所だった。
 ウィッチはその片隅に膝をつく。見上げれば絶壁に頂。のぞく月が手元を照らし灯りなどなくともそこそこに明るい。
 雑草を退け冷たい土に爪を立てる。泥が付き石にぶつかり茶色く汚れていく白い手も気に掛けず穴を掘る。穴の底に薬を置き、家から持ってきた一株のマーガレットを埋めて土を落ち着けた。

 やまあいを駆ける風に揺れる花。太陽のもとで太陽を想い咲く白い花。
 忘れることなど不可能だった。忘れたくなどなかった。しかし立ち止まっているわけにもいかない。
 かつて人知れず世界を救い、大魔女と呼ばれたウィッシュの孫娘。彼女もまた一族の存亡を、一族の願いを小さな肩に負っている。
 今までは二人で立っていた場所。これからは一人で立たねばならない。
 いつも側にあった太陽の色を、暖められた大地の微笑みを想えばそれさえも怖くはないはずだった。

 ――魔にだって、人を想う心はありますわ。

 追い風が香りを濃くする。

「…………っ」

 重苦しい息を吐き出し、ウィッチは口元を押さえた。
 今更。
 涙が溢れてくる。

 疲れているはずなのに、真夜中に押しかけても笑って許してくれた。嫌がりもせず薬草摘みを手伝ってくれた。実験に付き合って欲しいと言えば顔を引きつらせながらも応じ、仕事ぶりが見たいと我が儘を言えば連れて行ってくれた。過ちは身を挺してわからせてくれた。
 一番遠くて一番近い人だった。

 感情の奔流に押し流されそうになる理性を辛うじて抱き留る。しかし抵抗すればするほど頬をつたう滴は増えて嗚咽はどうしようもなく大きくなっていく。
 心も何もかも打ち壊してしまいそうなそれに淡く期待し心底恐怖する。
 額を地面すれすれに身体を折り泣き続けた。風の音も噛んだ土の味も、自分の声と涙に掻き消され、


 ふと、ウィッチは泣くのを止めた。息を止め嗚咽を呑み込む。
 草を踏む、聞こえるか聞こえないかの微かな音。背後から。

 ――魔物!?

 悲しみからの流れが急速に軌道を変える。魔族の本能が血を巡り、否応なく闘心を叩き起こす。
 すっと目の奥が冷めていく。忙しく騒ぐ心音も先ほどとは違うもの。警告音。
 生存の欲求を身体が訴えてくるその衝動に、少しばかり安堵を覚えた。悲しみを少しばかりでも忘れさせてくれる魔の血に感謝した。
 地面を睨み付けたまま後ろをうかがう。
 汗の滲んだ手で箒を握り――

 振り返った。

 
 夜の闇に響く硬い激突音。
 魔力の込められた魔女の箒は、金属の鞘に止められていた。
 息をのんだ静寂。
 そしてすり潰された男声。

「び、びっくりしたぁぁぁっ」
「ら、ラグナスさん!?」
 
 勇者が立っていた。もうここにはいないはずの青年が、鞘に収まったままの剣を掲げ汗を垂らしている。
 魔女の目が大きく開かれる。

「ど、どうして!?」
「いや、お店にいないからここかと思って……ウィッチ? 泣いてるの?」

 眉を寄せて、心配そうな顔。退いた剣を肩に提げて覗き込んでくる。
 夢? いや現実だ。
 頬に手が触れた。構わないのに、わざわざ手袋も脱いで。

「えあ、め、目にゴミが入っただけですわ! 別に……っ」
「顔汚れてるもんね」

 赤い目を隠し咄嗟にそっぽ向くと、くすっと笑われた。尚もしつこいくらいの指に、泥を拭われる。
 ……余計に恥ずかしい。

「ガイアースは、どうしたんですの」

 問うと、漸く手が離れ胸を撫で下ろす。
 その内麻痺を起こすんじゃないかと思われた心臓がやっとのことで落ち着きを取り戻す。
 ウィッチの胸中など知らないだろう。ラグナスは頭を掻いて苦い笑いを漏らしていた。

「うん、一度は戻ったんだけどね。実は――、




 ガイアースに戻ると既に迎えの兵が村まで来ていた。
 気が乗らないまま王城へ向かう。
 白い城壁の門を通り、手入れの行き届いた長い前庭を抜けて宮殿へ入ると、多くの人が勇者を迎え入れた。
 純白の宮殿に純白の空気。ステンドグラスを通った色とりどりの光。その下で煌びやかに着飾った人々の群れが眩しくて目を細める。
 懐かしいはずなのに息苦しい。
 冷たい汗が背中に流れそうな熱視線を受けながら進み出る。王の前に膝をつき、形式通りの挨拶を済ませると食事の席に誘われた。
 金魚の糞か金のガチョウの行列宜しくくっついてくる人達を引き連れ食堂に案内されると、出されたのは何故か大量の魚料理。
 訝り顔を上げて横を見る。長卓の端、豪奢な椅子に座った王の手がさっと白塗木板を持ち上げ、

《おめでとう4月の魚! うっそだよ〜ん♪エイプリルフール! 君は自由!》

 王の白髭に隠れた口元には邪な笑み。

「…………」

 沸き起こる笑いの中意識が遠くなるのを感じた。




「それって、」

 あんまりなオチに呆気に取られていたウィッチがやっと声を押し出した。

「釣られたって事だろうね。因みに王様は使用人が化けてたし」
「一体何処のお祭りですの!?」

 四月の魚はよく釣れる。
 思わずこめかみを押さえた。

「エイプリルフールなんてとっくに忘れてましたわよ……っ」

 さめざめと言いラグナスを見やる。

「それで、ファイナルクロスの一つや二つは撃ち込んできました?」
「そりゃモチロン。人を騙すなんてとんでもないよ」

 今頃あっちでは酒の肴にでもされてるのであろう勇者がぐっと拳を握った。
 半分冗談のつもりが即答されてはどうすればいいのか。
 ウィッチは遠くを見た。

「でも、それでは魔族は?」
「今のところはまだ何も、だってさ。暴れてるのも下っ端と理性を持たない連中ばかりみたいだし」

 訊くと肩を竦める。
 
 魔族とは非常に残忍な生き物だ。しかしその一方でとてつもなく情け深い面を見せる時もある。
 己を理解し受け入れてくれる者に対し、そして己が同調し心動かされる者に対してのみそれを垣間見せる。影に潜んで手を伸ばし支え、見返りも求めず夜の狭間からひっそりと見守る。激しい焦がれに身を灼かれ、深い悲しみに心砕かれてでさえ、何も云わぬまま目前の壁越しにじっと見つめ続ける。
 神の愛にも劣らぬ情を、その者に注ぐ。

(まさか、ね)

 しかし全ての魔族がそうとも言い切れない。
 ウィッチは直ぐに考えを打ち消した。
 代わりに溜息を吐く。

「まさか花にまで嘘つかれるとは思ってませんでしたわ」
「花?」
「いえ、なんでもありませんわ」

 手をひらひら。
 後ろを振り返る。

「プレゼント、無駄にしてしまいましたの」
「マーガレット?」

 ウィッチの肩越しに覗き込むラグナス。
 崖のふもとで植えられて間もない一株が、ふらふらと踊っている。

「もしかして俺に?」
「誕生日でしょう」
「これもそのつもりで?」

 取り出されたのは同じ花が一輪。切り口が湿った綺麗な布に包まれて……。
 出来るだけ長く、枯れないように。枯らさないように。
 喜びが溢れた目でウィッチはラグナスを見上げる。

「大切に、してくださったんですのね」
「何か勿体なくてね」
「四月一日の誕生花ですのよ」
「えっ、そうなの?」

 きょとんとするラグナスにウィッチはくすくす笑う。

「だからさしあげようと思ったのですけど」

 誕生花に花言葉という想いを乗せて。
 必ず戻ってきてくれるように、なんて言わないつもりで。

「良いんじゃないかな」

 ウィッチの隣にラグナスが並んだ。

「ここに来ればいつでも見れるわけでしょ?」

 期待など、していなかったのに。
 視線の先には月明かりを受けて淡く輝く花弁。

「そうですわね。ここに来れば」

 頷き目を閉じた。触れるでもなく、それでも一番近くに感じられる距離。
 こちらを見下ろしていたラグナスが、空を仰いだ気配がした。

「さて、夜も遅いし釣られた者同士魚料理といこうか」
「あ、そういえばわたくし、お昼から何も食べてませんわ」
「そうなの? じゃあ決定」
「ちょうどおばあちゃんから干物をいっぱいいただきましたの」
「ウィッシュさんから? 参ったな、俺もたくさん貰ってきたんだけど、魚」
「……本当にお魚ばっかり」

 頭の後ろで手を組み踵を返したラグナス。ウィッチも後に続く。
 二人、笑い合いながら歩き出す。
 人間の青年と魔族の少女。その歩調が並び、

「ラグナスさん」
「うん?」
「日付変わってしまいましたけど、お誕生日おめでとうございます」
「ん、ありがとう、ウィッチ」

 微笑みかければ注がれる暖かい瞳。
 陽に暖められた大地の温もりは今宵もここに。


 草の匂いを運ぶ穏やかな風。夜を照らす月と星の粒。
 小さくなっていく二人の背中。

 
 見守るような、白い花。


 THE END


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 どうでもいいネタバレ。

 【マーガレットの花言葉】 心に秘めた愛・誠実・恋を占う・貞節
   花びらをぷちぷち千切る花占いは、マーガレットで行う占い。

 【エイプリルフール】 フランスでは四月になるとサバが簡単に釣れるということから「四月の魚」という表現が用いられることがあるそうです。また、古代ローマではこの日だけ主人が使用人に仕えるというお祭りがあったとか。それらがエイプリルフールの起源だという説があります。


                      Short Story by  sinobu kaguruma

 Photo by「Harmony」