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 湿った緑の香りが辺りを包み込んでいた。
 薄く漂う霧の向こうには、どこまでも続く木々の景色。
 明るくもなく、暗くもない。
 鳥のさえずり、虫の声も聞こえない。風さえもさすらうことを忘れたかのような静寂。
 確かに生き物の気配はするというのに。その息吹は感じられるというのに。

 白く黒く、終わりのない鬱蒼とした森の翳。しかしこの静寂はどこか安らぎに満ちている。
 たとえばそう、物言わぬ友の腹を枕に借りその鼓動を感じながら眠るような。
 森全体が微睡んでいるような。


 だがその中に、本来あるはずのないものの存在があった。

 音。
 高く透き通った音色。

 木々の合間を縫い霧を震わせ、通りすがりの足を止めさせる。
 明らさまな奇異。
 それでも森は常を保ち続け、邪魔するでも壊すでもなく静かな旋律はどこまでもたゆたいやがて森に溶けていく。
 音色は、最もこんな森の中に相応しくない者の――つまり、少女の手から解き放たれていた。

「そこで何をしているのだ」

 白黒の森に浮かぶ、青くそしてあまりにも幼い後ろ姿。湖の精と見紛うそれに一瞬息を詰め呼びかければ、弾かれたように音を閉ざして振り返ってくる。
 同時にその足元からいくつもの影が散っていき、草陰に隠れた。

「迷子か? ご両親……お父さんとお母さんはどうした? こんな所に入っては駄目だと言われなかったのか」
「まいごじゃない。ひとりできたの」

 近づき目線を同じくして問うと、首を振りはっきりとした声が返ってきた。
 長い髪、すらりとした小綺麗な青い服。それなりの家の出らしいことがわかる。
 真っ直ぐ見てくる若葉の瞳に恐れはなく、むしろ好奇の輝きが見え隠れ。
 驚くほど気丈そうな、人間の女の子。

「一人で、だと? ここは魔の森なのだぞ? こんな所に人間、それも君のような小さな子が入ってはいけない。早く帰りなさい。なんなら途中まで送って、」
「だいじょうぶよ。ここよくくるの。わたしのいえ、このちかくだから。それにしらないひとについていっちゃいけないって、いわれてるもの。みつかったらおこられちゃう」
「いや、しかしだな……」

 促して立ち上がるものの、なんでもないように返され当惑する。
 少女の声には揺るぎない自信があった。この森を、そして目の前に対峙した初め出会った者を安全だとする、絶対的な自信。
 どこから来るものでもない、ただ感じているのだ。危険はない、と。

 そしてそれはおそらく正しい。

「君は――、」

 ふと視線を落として気がついた。
 少女の脚に隠れてこちらを伺っている黒い毛むくじゃらの生き物。動物ではない。……似たようなものだが。

「魔物と、遊んでいたのか」
「このこたちすごくおとなしいのよ。おともだち!」

 ね?、と笑顔を向けられた毛むくじゃらは、少女を見上げ安堵したように伸びたり縮んだりする。
 森の魔物が人間に懐いている。
 普通ならばありえない、信じがたい光景。

「いつもいっしょにオルゴールをきくの」
「オルゴール……」
「これ」

 突き出された両手には木製の小さな箱。

「これは……。そうか、さっきの曲はこれの……」
「ねぇ、あなた、アクマさんでしょ」

 手に取り眺めていると、興味津々の声。
 見れば身を乗り出して小首を傾げる少女。

「どうしてそう思うのかな」
「ツノと、おおきなツバサ!! ……シッポはないみたいだけど。ここにすんでるコたちとはぜんぜんちがう」
「正解」
「やっぱり! あ、でもだったら……」

 笑って言うと手を叩いて喜ぶ。
 しかしその表情がスッと引き、

「そのオルゴール、あまりさわらないほうがいいよ」

 指さされ見下ろす。
 木箱のふたを軽く撫でる。

「そのきょくね、アクマにはだめなんだって。どうしてなのかはわかんないけど、そうきいたの。だから……」

 軽く手をかけるだけで容易く開くふた。
 少女の声に重なる清楚なメロディ。
 再び森に流れ出す。

「良い曲だな」
「へいき、なの?」

 素直な感想。
 目を丸くして凝視してくる少女に笑い頭を撫で、

「私は善い悪魔だから平気なのだよ」
「まぁ、おじょうずね!」

 人差し指を立てれば、口元に手を当ててくすくすと笑った。
 足元では小さな魔物がキャッキャと騒いでいる。



「きょうは、おもしろいおきゃくさんがよくくるひね」

 倒木に腰を降ろしたまま、少女が呟いた。
 青髪のつむじに視線を落としながら訊ねる。

「私以外にも誰か来たのか」
「うん。ちっちゃいこ。きいろい、うさぎみたいな」
「あ、」

 すっかり忘れていた。

「それはウチの子だ。少し目を離すとすぐいなくなってしまってね。探しているのだが……」
「そうなの? さっきまでここにいたの。でも、どこかいっちゃった」

 心配げに、そしてどこか済まなさそうに森の奥を見つめる少女。
 その瞳が輝き、こちらへ向かう。

「そうだ、いっしょにさがそう! わたし、このもりあんないする!」
「いや、それは……。……そうだな、そうしてもらおう」

 危ないから帰った方が良い。
 言おうとして留まった。

「どうやら君はこの森に慣れているようだ。余所者の私が一人で歩き回るよりもいいだろう。頼んだよ」
「うん!!」

 あどけない満面の笑顔で大きく頷く少女。
 思わず口端が緩む。

「そういえば自己紹介がまだだった。初めまして、小さなお嬢さんマドモアゼル。私はサタン。貴方の仰るとおり、悪魔さんです」

 立ち上がり、胸に手を当て軽く会釈をする。
 見つめていた少女も幹から飛び降り、スカートの裾をつまんだ。
 淑女然と腰を折る。

「はじめまして、サタンさん。わたしは――、




 暗闇の中、音楽が聞こえた。
 優しく、包み込むように。誰かがその音階を口ずさんでいる。
 そう思った途端、さざ波が押し寄せるように蘇ってくる感覚。
 暖かい風に混じる草の匂い、太陽の眩しさ。後頭部を支える柔らかさ、額に添えられた穏やかさ、そこに感じる麗しき生命の輝き。

「あ、起きちゃいました?」

 身じろぐと降ってくる声。
 ゆっくり瞼を持ち上げると、目を灼く光。咄嗟に薄闇に逃げてしまう。
 そしてもう一度。今度は光の中に人影を認めることができた。だんだん目が慣れてゆきぼやけた輪郭がはっきりしてくる。

「ルルーか」

 少女の緑瞳が覗き込んでいた。
 青い髪が頬にかかる。
 くすぐったい。

「ごめんなさい。あまりにも気持ちよさそうに眠っていらしたので」
「歌……」
「え?」
「歌が聞こえたのだが」

 言うと、ルルーの視線が彷徨った。
 観念したように溜息を吐き、少し寂しそうに笑う。

「ごめんなさい。やっぱり苦手でしたか?」
「あのオルゴールの曲か。この前話してくれた」
「ええ、おばあちゃんの、オルゴールの」

 風が緑の香りを運んでくる。

「もう一度、歌ってみてはくれないか」
「え?」
「何故か、懐かしい感じがするのだ。何故か」
「で、ですが」
「…………」

 長い髪が揺れる。
 見つめると戸惑った瞳。
 しかしゆっくりと、恐る恐る歌い出す。

「良い曲だ」

 閉じた目を開き称賛すると、ルルーは驚いたように、

「平気、なんですか? だって、この曲は破魔の……」
「ルルー」

 腕を伸ばし、言いかけた少女の頭を引き寄せる。
 倒れ込むように男の胸に手をつき、小さく声をあげて頬を染めるルルー。
 格闘女王として名高い女も、こういう時ばかりは可愛らしい少女。

「私は善い悪魔だから平気なのだよ」

 人差し指を立てて囁けば、口元に手を当ててくすくす笑う。

「まぁ、お上手ですわね」
「本当の事だぞ」
「ええ、解ってますわ」

 微笑んで頷いてくる。
 華やかな、どこか切なげな微笑。



 体を起こし軽く息を吸って青の少女は歌いだす。
 草原にたゆたう旋律。自然を愛する心優しき者の歌声。
 深く、安らぎに満ちた微睡み。

 失われてしまった思い出のように、懐かしい子守唄。



                     END



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