前を向いて |
それは全ての始まり パタパタと薄手の革が、冷たい石畳を踏む音が木霊する。 等間隔で壁に設置された、古めかしく剥げた蜀台の上では真新しい炎が揺らめき、影を大きく浮かび上がらせていた。 影に繋がる白い長脚は怱々(そうそう)たる足取り。大きく開いた胸元から覗くたおやかな絹肌、柔らかく肉感的な線の躰に青く長い髪が緩やかな波を描きながら纏わりつく。 誇り高く着こなした薄生地ドレスをなびかせて、紅い唇を引き結んだまま、彼女は翠色の瞳を行く先の暗がりに向けていた。 くすんだ白い壁には所々ヒビが入り、しかしそれでも荘重(そうちょう)さと清浄さを失なわず、長き繁栄の時を懐かしむかのように深沈として動じない地下遺跡。 技芸、魔導技術、交易その他多数の技術に富み、その名を世界中に馳せたとされるライラ族栄華の跡。彼らが滅びた理由は最早知る由も無いが、彼の王国の偉大さは、ここライラ遺跡が沈黙と共に物語っている。 「…………」 流れる景色を撫でてゆく思慮深げな視線。 歴史の痕跡たる芸術、尊重すべき古美術に、不躾(ぶしつけ)にも施された罠や仕掛けは既に活動を止めており、過去、何者かが侵入した事を本来の静けさが知らせてくる。 淡い明かりの抱擁が忙しいサンダルの音を鮮明に響かせる。 両手足首にあしらわれた輝く黄金。美麗な尊厳を漂わせる彼女はまさに女王の再現。しかし真っ直ぐと先を見据えた瞳から、険しく顰められた相貌から垣間見えるのは、一見成熟して見えるもののまだいたいけな少女の姿。 やがて足音はさらに地下深くへと続く階段にたどり着き、彼女は迷う事なく駆け下りていく。 薄ら闇と土や埃の匂い。纏わりつくものはどれも彼女にとっては取るに足るものではないらしく、顔色一つ変えないまま髪を掻きあげる仕草と共に一掃してしまった。 眼下に蟠っていた光が次第に膨れ上がっていき、 「あぁ……やっぱり」 辿り着いたそこで女王は呟く。 足元に広がるのは透明感を増した白い床。 寂々とした広間は、そこだけが過去を引き留めていたように生の息吹を感じさせていた。 広間の真ん中を進む絨毯。揺らめく明かりに揺らぐ影。辺りを見回せど埃一つ落ちていない事など、見なくても解る。 落ちているものといえば……。 「あの子が言ったこと、本当だったのね」 仄明るい広間が呆れを含んだ声を響かせ、彼女は床から数段程高い位置にある玉座に目を向けた。結晶質な石の座には、絨毯と張り合うかのような赤い敷布。しかし、その上に王の姿はない。 「今頃あの子、ミノタウロスに追っかけられてるだろうけど……」 つかつかと歩いていき、そして止まる。 「あぁ、どうしよう」 深くスリットの入ったドレスから覗く真珠の脚を惜しげもなしに、腰に手を当て、大してどうしようという風でもなく斜め上を見やり独り言。 視線がゆっくりと降りていく。 ワインを一面にぶちまけたかのように真っ赤な絨毯の上、そこには一人の男が転がっていた。 長い髪は床に流れ、血は出ていないものの大きなタンコブを頭にこしらえている。 足元で不様に伸びた長身は、彼女よりも頭二つ分は高いだろうか。白皙の手に付いた爪は赤く尖り、背中には雄渾(ゆうこん)たる黒竜の翼。 頭上に頂いた、捩れた黄金の双角は偉大なる権力者の証であり、同時にそれらは、彼が人外の者である証明でもあった。 「えっと」 しかし目下に伏している男の衣は所々焦げ、威厳も気迫の欠片もなく、彼女は十八という年齢相応の態でぽりぽりと前髪を掻く。 「とりあえず」 言いつつ右手を握り締め。 「起こしますか」 言葉は風に吹かれる柔羽根の如き軽さ。格闘家のそれで一呼吸のもとに突き落とされる拳は、青い気の派を纏い的確に狙い目へと命中。 瞬間、ぐぇという首を絞められた蛙のような悲鳴と共に、この遺跡に君臨する主が仰け反るが、以来静まり返ってしまった。 「あ、あら?」 他にもなにやら奇妙な音も鈍く混じっていたが、それが何なのか彼女には解らなかったらしい。 耳鳴りでもしそうな静けさの中、腰を低く落とした状態から立ち直り冷や汗を流す。 「ちょ〜〜〜っと、やりすぎたかしらぁ」 「……る〜るぅぅぅ〜〜〜」 頬に手をやり、苦笑を浮かべる彼女が見下ろす先、白皙の長い指がぴくりぴくりと動き、地を這うような怒声。 暗青色の衣が跳ね上がった。 「わ、私を殺す気か貴様はっ!?」 「あ、おはようございます〜、サタン様」 「…………」 目に涙を浮かべ物凄い剣幕で怒鳴ってくる長身の男。 しかし彼は悪びれるでも無くにっこりと笑うルルーに毒気を抜かれて押し黙ってしまった。 もったいぶったような無言の後、彼は渋い顔のままで咳払いを一つ、体ごとそっぽを向きパチンと指を鳴らす。 すると、あちらこちら焦げ破れていた衣服は綺麗に元の形を取り戻したのだ。 まるで奇跡を見るかのような魔術。いや、魔導。 焦げの消えた暗色外套(マント)を片手で払う。流れるような無駄の無い動き。 魔王サタン。 背徳の王、堕天の使。それが彼の名であり生き様。 整えられた深緑の髪、締まった肢体。 透けるような白皙は薄明かりを映してなお幻想のように儚く、しかし切れ長の目から覗くは野性の深紅。 神のみが作り出す事の出来る美の造形。その神性と、共に合間見える底深き堕性。 律された翼で夜の闇すらをも切り裂き、遥かなる高みから冷ややかな微笑みで世界を見下ろす紅い瞳。決して表舞台に立つことはなく、圧倒的な力でもって、もがく役者達を哀れみを込めて哂いながら手綱を曳く者。 魔族の王にして世界の皇。それが彼である……筈なのだが。 魔王は眉間により深い皺を刻みつけ、大きく嘆息を漏らす。 「お前はなぁ、全くいつもいつも……」 くどくどくどくど。 「は、はぁ……」 とやかくや、今は妙に悟った説教癖のある青年と化しているらしい。 そういうところがジジ臭いなどと言われる要因ではないか。と思うものの、ルルーは何も言わない。 「それで? 何をしに来たのだ」 しばし続く言葉の羅列を聞き流していると、漸く気が済んだらしく斜めの視線で訊いてくる。 冷たく鋭利な輝き。普通の人間ならば一瞬怯むのだろうが、生憎ルルーは格が違う。 「サタン様にお逢いしに」 声は凛と短く。 曇りのない翠色を、森厳の奥で紅が見つめる。鋭く交差する視線。 本当にそれだけなのだから仕方がない。他に目的などないのだ。混沌とした過去、遠い幻を飾る光輝の亡骸など、彼女には興味がない。欲しいものはもっと現実的で、もっと身近にあるもの。ただ、それは他人からしてみればよっぽど非現実的で遠隔の領域なのだが。そんな感覚はとっくの昔に麻痺してしまっている。 無口な空気が二人の間をすり抜けていく。 白く沈殿した虚。 サタンの瞳は依然冷ややかな光を湛えたまま。 「試験は、終わったのだぞ」 だが、先に折れたのは魔王の方。 ――試験。 そう、試験なのだ。試験だったのだ。 「ルルー、お前は私の元に辿り着くことができなかった」 「……会いに来るな、と?」 「そういう約束だ。お前を妃に迎えることはできない」 言いながらも、サタンは此方を見ない。 「わたくしにはもうチャンスは無い、と仰られる?」 「…………」 細められた翠眼が、そっぽ向いたままの魔王を追い詰める。 「私は、力有る魔導師を妃として迎える」 一呼吸の間を置いて溜息のような言葉。 ルルーは目を閉じた。 目を開けると、魔王は何も言わずに天井を見上げている。 その向こうで、白々しく揺れる仄明かり。 「……解りました」 小さく言い、微笑む。 「魔導学園に行きますわ」 声を高く、宣言。 白皙の指がぴくりと動き、バネ人形の如く魔王が振り返った。 目を見開き、薄く開いた唇からは鋭い犬歯が覗く。 「莫迦な。魔導師にでもなるというのか」 「他に理由がありまして?」 「無茶を言うな。辿り着ける訳がなかろう。第一、お前には……」 「解ってます」 サタンの言葉を遮り、ルルーが頷く。 古代魔導学園。 格地域の魔導学校から選ばれた、極限られた者のみが入学を許されるといわれる大規模な魔導師育成校である。その名は、魔導を志す者からは憧れと景仰をもって語られ、遠望する者からは懸念と畏怖をもって語られる。 しかしその実態は機密事項であり、教育制度は勿論、場所すら明かされていない。何処の大陸、何処の地域にあるのかさえ全く見当もつかないのである。 卒業生である魔導師達も頑として口を割らないと聞く。下手をしたらそこら辺の暗殺者共よりも、固い頭と口で構成されているのかもしれない。随分と教育が行き届いているものだ。 故に、実際赴いた者以外にとって、学園は夢幻の存在。 だが、それでも名門は名門である。 入学した。たったそれだけでさえ魔導師の誇りともなり得る場所。 そして入学資格を得る条件はたった二つ。一つは厳しい試練の旅を経て学園に辿り着く事。もう一つは、暗黙の了解。 「わたくしには魔導が使えません。魔力がないんですもの」 魔導師になるのに魔導が使えなくてはどうにもならない。 「で・も、学園に辿り着けない確証はありませんし、入学できない確証もありません」 腰に手を当てにやっと笑う。 人差し指をくるくると回し、世間知らずなお嬢様は、暗黙すら可能性という不確定の拳で両断してしまう。 仮面のような魔王の無表情がそれを見据え、人形宜しく口を動かす。 「入学できる保証も無い」 「行ってみなければ解りません」 「道を知らんだろう」 「大丈夫。当てがあります」 「……学園は甘くはない」 「旅の途中で魔力が付くかも」 「お前は!」 悪魔が眼差し険しく声を荒げてくる。 柳眉を寄せ、悲哀と憎悪と怒りを少女に向ける。 背後に背負うは闇よりも昏く、混沌よりも深い魔という意思。 「何故、諦める事を知らぬ……!?」 かすれた声。 鋭く凍った深紅を、ルルーはしかと見据え、 「諦める事に慣れていたわたくしに、足掻く事を教えてくださったのはサタン様です」 きっぱりと言った。 「何もせずに諦めるのは嫌いなの。希望を捨てるのはもうウンザリ」 彼は言わなかったではないか。 あの娘を妃に迎えるとは一言も。 ルルーに課せられた試練、しかし何処から迷い込んだのか、罠を掻い潜り先に遺跡最下層までたどり着いてしまったらしい少女は、サタンの愛玩であり婚姻の証であるカーバンクルを連れていた。 が、彼女にそんな気は全く無いという。 折角与えられたチャンスを台無しにされたこともあり、ルルーは彼女を信じず、部下の半牛人(ミノタウロス)をけしかけてしまったわけだが、確かにあの少女が言った事は本当だった。 魔王は未だ此処に居たし、それどころかボロボロになって倒れていたのだ。 何を諦める必要があろうか。 ルルーは溜息を吐き肩を竦める。 「サタン様、煩い女を黙らせる方法なら幾らでもありましてよ」 サンダルの音がただっ広い空間に響いた。 それはまるで、悲しい呪詛のようでもあり、切ない祈りのようでもあり。 「その手で引き裂いてしまえばいいだけのこと。違いますか?」 或いは、単なる意地悪。 誇らしげな胸を押し付け、咎めるような翡翠輝石が見上げる先、苦々しい双眸が見下ろしてくる。 「わたくしは諦めたりなんかいたしません」 「ルルー、お前は……」 首筋に絡まる絹肌の腕。 言葉は重ねられた唇に遮られ、行き場を失う。 光の届かない地下。 白く冷たい牢獄に、重なった二つの影が伸びる。 円柱に支えられた天は高く、作り上げられた空間は無意味に広く。 方や魔の王、方や人間の女王。 翼を折られた鳥のように抗いようの無い、対等。 されど魔王は、拒む事も抱きしめる事もしない。 長い口付け。 不意に腕が解かれ、少女の白衣と青髪が翻った。 「ルルー!」 声は叫びに近く、伸ばされかけた手は、しかし力なく下ろされる。 「もがけば何かが動く。諦めなければ何かが変わるかもしれない。受売りなんですの」 「受売り……」 「誰からの、だったかはもう憶えていません。顔も名前も忘れてしまいましたし」 「…………」 歩みを止めて振り返れば、気難しい悪魔が微笑みさえなく佇でいた。 「長い間、その言葉さえ忘れていたかもしれません」 少女は微笑む。ただ柔らかく。 ルルーは背筋を伸ばし、 「お別れですサタン様。暫しの間」 ドレスの裾を抓み慇懃に腰を折る。 踵を返し、そして駆け出した。 「…………」 足音は遠退いていく。慣れない静けさが少女の存在を埋め尽くし消し去っていく。 例えこのまま時が流れようとも、彼女はここへは戻ってはくるまい。ただ持ち前の直向さで目標に向かって突き進んでいくのだろう。過去など振り返らない。ひたすらに前を向いて先だけを見つめて、魔王の事さえ、思い出さない。 紅い目線を上に逸らし、男は表情を隠すように目を閉じた。 行き場を失い、行き場を違えた言葉を反芻する。 「ルルー、お前は……」 ――私にお前を殺させたいのか!? 後に残されたのは孤独な王。 濃すぎる血脈ゆえに、堕天の呪いゆえに、そしてその身に刻む長き永遠(とき)が故に、誰にも受け入れられず誰も受け入れられない人外魔境。 愛する事は愛せない事と同義。だからこそ、手に入れる事も手放す事も望まない。 魔王。 両腕を広げたよりも大きく、黒い罪を背負い、空白な鳥篭の中運命に絡め取られたままの、男。 ただ、一人。 ■ ☐ ■ ☐ ■ 太陽は真昼の色を濃くしていた。 空は晴れ渡り、木々は茂り、風は煩くて光は目に痛い。 小鳥の羽音や愛を囁く鳴声、獣の吼える声なんかまで聞こえてきて、清々しい空気をいっぱいに吸い込みながらルルーは大きく伸びをした。 「さて、と」 埃っぽい地下の空気を払うように肩を回す。 「あの子を探しますか」 茶色の髪を頭頂で結び、青を基調とした服に胸当てのみという軽装の女の子は、確か魔導学園に行く途中だと言っていた。 今頃ミノタウロスに追われ、迷いの森辺りに追い詰められている事だろうが……。 「まぁ、サタン様も倒しちゃうくらいだもの、ミノ如きにやられてるはずはないわね」 自分の事は棚の上。ルルーは溜息を吐き呑気に呟く。 「森の魔物達に聞けば解るかな」 言いつつ歩き出した。真っ直ぐと、前を向いて。 その足取りがだんだんと軽快になっていき、 「〜♪」 遂にはスキップにまで進化していく。 きゃー、サタン様とキスしちゃったーー!などと黄色い声を上げつつ、ご機嫌なルルーの後姿はカーバンクルを連れた少女を目指して森の中へと消えていくのだった。 彼女が少女と再会し、二人と二匹の奇妙なパーティーができあがるまで、そう遠くはない話。 FIN |
華車 荵
http://www.yuukyuu.jp/ 2007年04月01日(日) 16時24分27秒 公開 ■この作品の著作権は華車 荵さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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