大好き。

 手にしっくりと馴染んだペンを投げ捨てる。椅子の背に凭れて溜息を吐くと、木製の椅子がギッと軋んだ。今まで特に何とも思わなかったのに、集中力が途切れた瞬間、部屋の中がやたらと静かに感じる。いつもと違う。何か足りないと感じた、刹那に。

 フルに回転させていた脳が急激に衰えてしまったようにぼんやりとする。
解きかけの魔導数式と資料を目の前に広げたまま天井に近い壁を見つめていたボクは、机の上を占領している紙製のノートやら羊皮紙の分厚い本やパピルスの巻物やらを、だらだらと払いのけ、そこに埋もれた金の懐中時計を掘り返した。
 旅立ちを前にお母さんが持たせてくれたソレは、重い本の襲撃を受けながらもちゃんと正確に時を刻んでいて、それが妙に感心できてなんだか可笑しい。
周りの圧力にも負けず健気に頑張ってる姿が、ボクの魔導師の卵という位置付けと重なって、『負けてられないなぁ』なんて思いながらも鈍った思惟を立て直す気にもなれず、欠伸を一つ零しては時計をじっと見つめる。
 静寂に満たされた部屋に響くチッチという小さな音。短針の指す八の数字に一気に思考が回復し窓を振り返ると、紺青の闇がそこまで迫っていて、あぁ、もうこんな時間なんだ、って。
 部屋の隅に置かれた小さな籠の簡易ベッドでは、カーくんがすぴすぴ寝息を立ててるけど、それすらも掻き消してしまうほどボクの部屋は静かで、その静けさが煩く頭に響いてくるようで、玄関の方が凄く気になる。
 でもどんなに聞き耳を立てても扉が開かれる気配はなくて、溜息を吐くと幸せが逃げるっていうけど、じゃぁ、溜息吐かなきゃその分幸せは早くやってくるかな? なんて。もっとも、出て来る物は仕方ないから無理に止めないけどね。

 両足をぱたぱた動かすと椅子の軋む音が部屋の中に響くけど、その騒音にも気分は晴れないまま。学園から帰る時、仕事が残ってるって言ってたから今日は遅いんだろうなって解ってるけど、でもやっぱり落ち着かないよ。不安な気持ちでいっぱいいっぱい。ちょっと前まではこんな気持ち、知らなかったのに不思議だね。トクベツって事かな?
 ケド大丈夫だよ。こういう時の対処法ぐらいちゃんと解ってるから。

 ボクは机の引き出しをそっと開ける。ドキドキと早くなる鼓動。まるで宝箱を開ける時みたいな、期待と不安がない交ぜになったような。
色んな小物が詰め込まれた中、直ぐに見つける事のできたお目当てのものに口元が緩む。
 明かりを受けて淡く煌めく銀の腕輪。ボクにはほんの少し大きいそれは、彼のお手製。月と、それに相対するような太陽。そしてその二つを見守るように茂る森を模った細やかな装飾の中に、一際輝く蒼い石。キミの色、ボクの色。トクベツなキミがくれた、トクベツな物。そっと手に取るとヒヤリと冷たくて、でも暖かくて。
 貰った時の事を思い出して、一人でニヤけちゃうボクはやっぱり変なのかな? 
 でもお陰で不安な気持ちはすっかり消えて、幸せな想いで、夢見る気持ちでキミを待つよ。
「早く帰ってこないかな?」



「……アルル?」
 扉を開け、その名を呼ぶが返事は無い。

 学園を後にした時は確か十時を回っていた。
 全く、ここまで遅くなるとは想定外だった。新刊が入ったとかでだだっ広い図書館内の整理をさせられた挙句、地下書庫の整頓までさせやがる。
 予期せぬ重労働。お陰でコッチはヘトヘトだというのに、アッチは手間が省けたと大喜びだ。自分の学校の事くらい自分でやれ、俺は何でも屋か?と、一言言ってやりたかったが、生憎疲労と¢≠ュ帰りたいという気持ちの方が先立ってしまったらしく、何も言わずに学園を出てきてしまった。能天気な魔王に付き合うのもほとほと疲れたというのもある。
 ……まぁ、新刊とやらを二、三冊くすねてきたんで今日の所はそれで良しとしておこう。あれだけ働かされたんだ、これくらいの報酬は貰っても罰は当たるまい。
 尤も、量が量だったんでたかが二、三冊、判りはしないだろうが。
 アルルも新しい魔導書が手に入れば喜ぶだろう。窃取を責められるかもしれないが、収集品(コレクション)が増えるとあらば目を瞑るかもしれない。そう考えながらも急いで帰って来たが、家の中は止め処なく闇黒の進入を許していた。

 居ないのか? 少々放浪癖のある少女の身を案じながら、やや熱気の篭った暗い廊下を歩く。
 自分の足音と共に床が微かに軋む音。視界の先に見えるは閉ざされた扉。小さな光を隙間から漏れさせているそこは、アルルの部屋。
 何だ、居るんじゃねぇか。安堵の溜息を吐きながら扉を開くと、難なくその姿を見つけることが出来た。
 よく整理された小奇麗な部屋だが、置き場なく片隅に積み上げられた魔導書やら魔導具やらの収集品が、年頃の娘の部屋を台無しにしている気がする――まぁ、俺的には自分の塒(ねぐら)のようで落ち着くんだが……――その中にぽつんと一人。
 帰ってから直ぐに着替えたのだろう。麻衣を桜の煮汁で染めたピンク色のシンプルなパジャマに身を包み、机に突っ伏した格好で背中を丸めているアルル。光の加減で金色に見える瞳は今は固く閉ざされ、絶え間ない努力の末に散らかったままの机には、ノートの切れ端に羽根ペンで『お帰りなさい』の走り書き。小さな手は、胸の辺りで俺がくれてやった腕輪を握り締めている。
 メッセージの上に文鎮代わりに置かれた懐中時計は、俺が学園を出た時間から三十分近く経過している事を伝えていた。

 溜息を吐く。
『天使の様な』。月並みだがそうとしか形容の仕様が無いほど儚げで愛らしい寝顔を見つめる。
ずっと待っていたのか? 寂しかったのか? そう思うと嬉しくも苦しく、静かに柔らかな髪を撫でた。
 やはり先に帰さずに仕事が終わるまで待たせておけば良かっただろうか。今更遅いというのに、後悔が胸を過ぎり、御免な、と起こさないように囁いて、その小さな体に腕を寄せる。
 ふわりと、難くなく椅子から浮き上がる身体はあまりにも軽く、しかし確かな重みが腕に掛かり安堵している自分に気付いて苦笑が漏れた。
 相当強く握っているのだろう、腕輪は未だ手の中に納まっていて、大事そうに握り締めているその姿がいじらしくて、ベッドに腰を下ろしてぐっと強く抱きしめる。
 囁くような寝息がより近くで感じられる。
 
 この腕の中にすっぽりと納まってしまうほど華奢で小さな身体。そこら辺の同い年の少女達となんら変わらない、いや、寧ろ同い年の少女達と比べても小さいと思えるこの身体の何処に、あの魔王すらも凌ぐ魔力が眠っているのかと呆れてしまう。
 しかしその事実は己が身を以って十分に実証済みだった。伊達に何年もコイツを追いかけていた訳ではない。初めて逢った時など、その膨大な力に衝撃を受けたほどで、未だ嘗て、コイツを超える者を俺は知らない。
 十六歳の少女にしては……、否、一人の人間であるにしては大きすぎる程の魔力を潜在させる少女。だが、アルルの凄さはそれだけではなかった。特に目を見張るのはその成長振りだ。
例え一度挫けても、次には壁を乗り越えて行ける強さを手にしている。誰よりも早く、強く、確実に。今まで幾度となく渡り合う事で知ったコイツの性質であり才能。
 それ故にか、知識も経験も生きた年月も、遥かに上である筈の俺でさえ、未だ勝つ事が出来ないでいるのだ。それが途轍もなく口惜しく思える。自尊心やプライドという訳ではなく……。

 ……解っている。『護ってやる』なんて言葉が通じるような相手ではないことくらい。
 こうやって、抱き締めることでそうしてやっているように錯覚しているだけで、それは幻想。本当に護られているのは俺自身だということくらい。

 何時から、こんな事を望むようになったのか。
 始めは強さへの渇望だった。コイツを斃(たお)し更なる力を手に入れる、それだけが目的だった。コイツの魔力を吸収すれば、俺は莫大な力を手に入れることが出来る。そう所期していた。
 それなのに……。

 変わってしまった渇望の意。幾度となく関わり、散々たる目にも遭いながらも、無意識に力を貸してしまっている中で気付いたそれに、最初は深く戸惑った。
 目を逸らし、中途で考える事を止めては『全ては力を手に入れる為』そう言い訳したりもした。
 闇の魔導師である俺が、こんな「人間らしい」感情を持つなど有り得ないと。そんなものはとっくの過去(むかし)に棄て去っていたいた筈だと。
 だが、一度気付いてしまったものを無に還すなど出来る筈もなく、何時しか、鼻で笑い飛ばし否定しながらも口に出すことを許していたアルルの、「お友達」という言葉すら苦痛に思うようになっていた。
 渇望、劣情、独占欲。その時には既に、「お友達」なんて生易しい綺麗事で片付くほど、俺の想いは簡潔ではなくなっていたから。

 要らない感情。闘争の最中ですらあの瞳に、あの声に覚えるひりつく様な痛み。アルルの危機に無意識に手を差し伸べている自分。何気ない言葉を交わす幸福感。人波の中、偶然見つけた笑顔に見惚れてしまう哀感。その全てを消してしまいたくて、殊更(ことさら)冷たい言動や態度を取ったり、逢わないようにと避けたりした事もあった。
 だがその度にアルルは見捨てられた子犬のような顔をして擦り寄ってくるのだ。
「お友達」と。
 まるで罰のように。

 そしてコイツは囁く。最も残酷な言葉を。

『キミはボクと出逢うために今まで生きてきたんだよ』

 屈託のない笑顔で。
 全てが凍りついた気がした。

 アルルの為。闇の魔導師になったことも、二百年近い年月を生きてきた事も、数え切れぬ罪にこの手を染めてきたことも、全て。
仄(くら)く、醜悪な感情が、だらりと己の中に流れ込んでくるのを感じた。

『……ならば、お前はその罪を償うべきだろう?』

 その時の俺は、最高に醜い哂いを浮かべていたことだろう。


 抵抗するような素振りは見せたものの、アルルがそれ以上拒む気配はなかった。
 無駄だ、と直感的に感じ取ったのかもしれない。どんなに抵抗しようが男と女の力差は歴然。結局は捻じ伏せられ、組み敷かれるのだから。
それを受け入れ≠ニ勘違いする趣味はないが、利用している事には変わりないのだろうと、昂(たかぶ)る情緒の隅で思った。
 俺の下で小さく身体を震わせて必死に破瓜(はか)の痛みに耐えるアルル。合意のない行為に細く白い腕でしがみ付き、産まれたての子犬のように肌を摺り寄せては救いを請うように哀しく声を上げる。
 
 ――俺に助けを求めて如何(どう)する気だ?
 
 以前の、旅先で幾度となくお前を助けてきた『俺』なら兎も角。
 今の俺は、ただ只管(ひたすら)己の欲望の為だけにお前を汚す『雄(おとこ)』でしかないというのに……。
 事実を突きつけるように、わざと肉欲のみを求めるかのような抱き方をした。
 力に任せて奪った自由。仄暗がりに浮かぶ絹肌に、まだ幼さの残る胸に貪るように吸い付き、舐めては跡が残りそうなほど歯を立てる。
執拗に、乱暴にアルルを揺さぶり責め立てた。
 散りばめられた硝子のように光る汗。押し殺すように鳴り渡る悲鳴さえ聞えない振りをして突上げ抉る。
 身を焦がす熱に浮かされ溺れる中、一人の女を欲して荒れ狂う野生を高みの理性が嘲り罵る。
 卑怯者、と。
 お前は私欲の為にアルルの優しさに付け込んだんだ、と。
 己の惰弱さに銜えて、全ての罪を無垢な彼女に擦り付けて……。

 こんな形で抱きたくなどなかったはずなのに。
 出逢った瞬間から色彩を取り戻したモノクローム。下らないと解っていながらも馬鹿をやる日々は、まだ世間知らずの餓鬼(がき)だった頃に戻ったようで心地良かった。それを認めてしまえば、今まで俺がしてきた事を否定する事になるような気がしていたのは確かにある。だが、そんな事よりも大切だったのは、守りたかったのはコイツの笑顔だった筈で。
 
 傷付けたくはなかった。こんな俺すらも無防備に信じてしまえる純真さを、どんな逆境に立たされようとも希望を見失わない強さを、幾度となく救われた優しさを、
 ただ守りたいだけだった。
 その輝きを汚そうとする輩から。その力を欲する者達から。いつしかコイツを俺の隣から攫って行くだろう誰かに嫉妬し、どうあっても捕らえていたいと望む自分から。なにより、この時でさえ痛みに浮かされ涙と涎に濡れた顔に、腕の中で怯えたように震える躰に、初めて男を知った証である緋の色に、ザワリとした悦びを感じてしまう醜悪な俺自身から。
 守ってやりたかった、筈だったのだ……。

 ――今更気付いても、もう遅いよ。

 反り返る肢体。跳ね上がる嬌声に、アルルの咎める声が聞こえた気がした。

 意識を散らせたアルルが快楽とは程遠い所に在るなど一目瞭然だった。
 それは意地を張ったが為に情欲に溺れ、守りたいものも守れなかった己の咎で、もう二度とアルルが以前のように無防備に寄って来て、笑いかけてくれる事もないのだろうと、そう思っていた。

『ほら、ね? きっと、ボク達はこうなる運命だったんだよ』

 それなのに。
 無理矢理な情事の果てに見たのは、変わらぬ笑顔で。
 押し付けられた烙印を指でなぞりながら、突拍子もない事を根拠も無しに嘯く自信に満ちた瞳で。
 冗談のように軽い口調で本気を言ういつもの調子で。

 ――馬鹿かお前は!

 怒鳴り散らそうとして出来なかったのは、差し伸べられた手が俺の頭を撫でたからで。

『……っ!』

 抱き寄せられるようにその胸に顔を埋めた俺の涙など、アルルは見ない振りをしてくれたようだった。
 
 護られている。その感じが心地良いと感じた。


 それから数日後の事だ。俺がこの腕輪を造ってやったのは。
 その間、アルルの俺に対する態度はなんら変わることはなく、顔を合わせれば皮肉の言い合いに始まるじゃれ合いをし、勝負に負けては荷物持ちや、買い物の手伝いをさせられるという以前と全く変わらない日々が続いた。とは言っても、俺もその関係に以前ほど蟠りを感じなくなり、アルルも「お友達」とは言わなくなっていた。ただ、それが別の言葉に摩り替わっていて、妙に照れ臭く感じながらも幸福感を素直に受け入れていたのだ。
 最早、闇の魔導師としての運命やら使命やらはさほど重くは感じられなかった。確かに、幾らか不安は残るが、あんな事があっても尚以前と変わらず、いや、以前にも増して俺を頼り擦り寄ってくるアルルを見ていると、コイツとならばどんなことも乗り越えて行ける。柄にもなくそう思えた。
 だから、アルルに学園を卒業するまでの専属家庭教師を頼まれた時は悪態を吐きながらも正直嬉しかったし、中間試験の時、初めてアルルの家に泊まる事になった時は、自分でも『浮かれている』と思いながらも三日掛けて造り上げたこの腕輪を手渡したのだ。
 アルルの好きな風景。暁を表す図柄を全て容れるには容量が足りず、若干大きくなった腕輪を嵌めて壊れそうなほど儚げに微笑うアルルを抱き締めて、今迄一生言う事はないと思っていた言葉を囁いた。
お前に俺の助けなど必要ないのかもしれないが、お前が頼りにしてくれる限り今迄よりもずっと近い場所でお前を護りたい
 そう願いを込めて。


 寝息を立てているアルルの額を撫でる。
 果たして、今の俺が当初とはかなり懸け離れたその目的を達成できているのかどうかは解らない。
 アルルは強く、賢い。俺の助けなんぞなくとも独りで生きて行けるだろうし、そう誰かに易々と護られてやるほど単純でもヤワでもない。もしかしたら俺は、コイツを更なる高みへと導くための踏み台でしかないのかもしれない。そう思う事もある。だが、アルルが隣で笑っていてくれるなら、その笑顔が陰ることがないのならそれでも良いと思えた。
 それに何より、俺はコイツの成長が楽しみなのだ。今後、どんな風に成長していくのか、どんな運命を辿って行くのか、コイツの目指す一流の魔導師≠ニはどんなものか。それを隣で見守っていられるのならこの上なく幸福(しあわ)せだろう。

闇は光に斃される=@俺の運命は、既に決まってしまっているから。

 幸い、今の所俺たちの邪魔をする者は居ない。嘗ては学園内にも、アルルに言い寄ってくる輩は居たのだが、ちょっと釘を刺してやれば静かな物だし、以前はあれ程騒がしかったカーバンクルも……。
 そこまで考えてふと思い出す。そういえば部屋がやけに静かだ。
 何時もなら黄色い軟体動物の寝言だかイビキだか判らん声が聞こえて来る筈なのだが、部屋は静まり返り、聞こえてくるのはスヤスヤというアルルの寝息のみ。
 首を廻らせ部屋の隅に置かれた籠のベッドを見やるが、そこには中心が僅かに窪んだタオルが敷かれているだけで、中はもぬけの殻だった。
 どうやらあのチビは、今の主人であるアルル以上に放浪癖が激しいらしく、夜になるとこんな風に姿を晦ますことがある。
 それは俺の事を信用しているということなのか、それともただ単に興味がないのか、その思考は謎に包まれているが――尤も、ヤツが何かの思想の下行動するということをするのかどうかすら謎だが――最近ビームを撃ってこない所を見ると、どうやら嫌われてはいないらしい。いや、時たまじゃれ付いてくることもあるし、結構好かれている方なのか。
 何も考えてないように見えても、案外こんな時も気を遣ってくれているのかもしれない。そう勝手な憶測を立てては苦笑する。

「……ん」
 腕の中で、アルルが小さくうめき身じろいだ。
 ゆっくりと瞼が持ち上がり、部屋の明かりで金色に染まった瞳が俺を映すが、アルルに俺がちゃんと見えているのかどうかは定かではない。
 瞳孔が開き、焦点の合わない目でやんわりと微笑む。
「お帰りなさぁぃ……」
「あぁ、只今。……起こしたか?」
 相当眠いのだろう。いつもよりものんびりした細い声だ。
 アルルがふるふると小さく首を振る。
「……あのね、帰ってきたの、知ってたの。抱っこしてくれたの気付いてたけど、瞼重くて目開けられなくて……」
 まるで幼子が親に今日の出来事を話して聞かせるような口調。喋るのも億劫な筈なのに、必死に意思を伝えようとしてくれる。その姿が愛らしくていじらしい。
「そうか。すまんな、遅くなって。勉強も見てやれなかった。これじゃ家庭教師失格だ」
 苦笑しつつも茶色の髪に指を奔らせる。
 明かりに透けた、さらさらと零れ落ちる髪は、何度触れようとも飽きる事はない。
「ううん。家庭教師としては無理だったケド、恋人として帰ってきてくれたから良い」
 にへら。と笑う。
 思わず吹き出してしまった。まさかこんな風に言われるとは思っていなかったから。
「そうだな。じゃぁ『恋人として』それらしい事をしてやらなければならないな」
「……?」
 未だ離さずに握り締めていた腕輪を徐に指から取り上げると、不思議そうに首を傾げるアルルの左手首を持ち上げてそれを嵌めてやる。そのまま指を絡めて掌を重ね合わせる。小さな掌はすっぽりと、俺の手の中に収まってしまった。
 じっ、と暫く見詰め合う。
 恥ずかしさに負けたのか、それとも俺の意を察したのか、アルルが静かに目を閉じ、それに誘われるように薔薇色の蕾を奪った。
 確かめるような、長い触れるだけの口付けの後、ゆっくりと歯列を割って舌を挿し込む。
「……ん……んふっ……」
 悠揚に注ぐ口腔への愛撫を受けて、アルルが甘く息を漏らす。
 頬を紅く染め、きゅっと目を閉じて、空いている手で俺の服を掴みながら俺を受け入れるアルルの表情を、時々目を開けては愉しみながら舌を絡めた。
 溶け合う熱に意識が昂ぶる。
 重なり合う唇の隙間を縫って混ざり合う吐息。やがて息遣いは粘り気を帯びて響き渡る。
「……っは」
 唐突に離された唇を銀の糸が繋ぐ。失われた温もりを惜しむように開かれたままの唇。何かを求めるような瞳は熱を帯び瑞々しく潤んでいて、その表情が途轍もなく可愛くて、思わず己の雄が暴走しそうになるのを停めるのに必死になった。
「今日は此処まで……な?」
「……うん」
 耳元で囁き髪を指に絡めると、アルルは恥ずかしそうに、そして何処か残念そうに俯いて、胸に頬を寄せてくる。
 今欲望に任せて抱いてしまえば、明日、アルルの方が辛いだろうと思い、気を利かせた積もりなのだが、逆にアルルの不満になりはしないかと心配しつつ、額に、瞼に、頬に口付けを落としていく。
 くすくすと擽ったそうな笑い声が部屋を満たし、そこ声に安堵を覚える。

 全く、丸くなったものだと自分でも思う。アルルに出逢い、受け入れられ、強くなったとも弱くなったとも自分で感じられる。
 どんな事があっても、大切なものを護り抜こうという意志を手に入れた。
 逆に、いつか失うであろうこの時への怯えが頭を擡げた。

 手に入れた一滴の幸せ。

 この幸せは、闇の魔導師である俺にはあってはならないものなのかも知れない。

「ね、シェゾ」
「あ?」

 それでも。

「大好き、だよ」

 お前が笑い、肌を寄せてきてくれるなら

「あぁ、俺も、お前が大好きだ」

 例えそれが禁忌でも、俺は俺の遣り方で運命を受け入れ逆らいたい。



 『抗うこと』
 お前が思い出させてくれたから。


                                
 何時か訪れる運命よりも
 今の幸せを素直に感じていよう
 コイツと過ごす日々が、俺の力となるように。

                           FIN







 おまけ

「はぁ……」
 白い頬に手を当て、彼女は静かに深い息を吐いた。
「どうかしたのか? こんな所で溜息などを……」
「どうしたもこうしたもないわよ!」
 背後から放たれた声に彼女は振り返る。
 月の光が姿を消してしまった夜にも関わらず、その姿は暗闇の中でもはっきりと浮かび上っており、まるで闇黒に蠢く森に降り立った月光のよう。
 緩くウェーブの掛かった黄金の髪が揺れ、地に付きそうなほど長いそれを、やや鬱陶しげに肩先で払う。ゆったりとした白い法衣(ローブ)が風に靡いた。
「……何をそんなに苛付いているのだ」
 闇の中に微かな金属音が響く。
 金褐色の瞳に映るのは闇色の青年。不揃いな短い髪が風に揺れ、晴れた夜空のような瞳で彼女を見詰める。真顔であるならば神話の英雄のような勇ましさと威厳を感じさせるのであろう精悍な顔立ちは、今は呆れの為に崩れていて、『闇』という不吉な称には不釣合いな優しさを滲み出させていた。
 彼の嗜めるような声に頬をぷぅっと膨らませる彼女。そういう表情をするとなんだかいつもよりも幼く見えて、それを可愛いと密かに感じてしまう辺りが、彼が己の主に負けず劣らずのヘタレである証だということなど、彼自身は知る由もないのだろう。
「だってぇ、アルルってば最近ぜぇんぜん、私の相手してくれないんだもん……」
 拗ねたように軽く地を蹴る。つまり彼女は言いたいのだ「退屈だ」と。
「それは仕方がなかろう……。お前の主にも修行があるのだ。暇を持余している訳にはいかんだろうからな」
「……シェゾの相手はするのに?」
「…………」
 少しだけ腰を屈めて覗き込んでくる彼女に、彼は言葉を詰まらせてしまい、遺憾とも諦めともつく溜息を彼女が漏らした。
「女の友情って儚いものよね……」
「………」 
ふぅっと溜息を吐いて後ろを向き、たおやかな髪を指に絡ませる。
「いや、あっちはお前が女性であることは知らないのでは……」
 などとは、彼女のパンチとビームが怖いので黙っている彼であった。
「恋なんてモノでこんなにも簡単に壊れちゃうなんて……」
 今度はどこぞのオペラ歌手よろしく、嘆くように両手を広げる。その様がやけに似合っていたりもするのだが、ちょっと待て、それは今迄のお前の行動を棚に上げていないか? などとは彼女の……(ry
「……そんなに暇ならば魔王の許へ遊びに行ってはどうだ? あそこなら、なんら退屈はすまい?」
 いや、確かに主の目を忍んで逢ってくれるのは嬉しいのだが……。などと独りで心の中で弁解しつつも口に出してはそう言う。そんなことを考えているなど知れたらむっつりだと言われても仕方がないだろうこの性格は誰の似か。
 少々キツイ言い方のようにも聞こえるが、それは彼の些細な心配りだった。
なんだかんだ言って、主人の隣に控えていなければならぬ身である。そう易々と話し相手にもなってやれないのだから、自分の事は気にせずに自由に里帰りするといい。そういうことなのだが、言った本人が内心嫉妬の黒炎を揺らめかせているのは一目瞭然なのだからしょうもないことである。
 そんな彼氏(?)の養父に対する嫉妬心など知ってか知らずか、彼女は振り返り唇を尖らせた。
「何て言って帰れっていうのよ? 『お友達が家でイチャラブやってて暇なんで帰ってきましたぁ〜❤』って?」
「……良いのではないのか?」
 きょとんとする彼。彼女は拗ねたように睨み付ける。
「良くないわよ。私はねぇ、そんな下らない理由で帰りたくなんかないの!」
「では、どういう理由なら帰るのだ?」
 問いかけに彼女は、自信満々に手を腰に当てふんぞり返った。
「そりゃ勿論、『お腹空いた〜』とか『カレーをお腹いっぱい食べたい〜』とかよ」
「…………」
 得意げに言う彼女に、どっちもどっちだろう。と突っ込むべきなのか、謹厳な彼は律儀にも頭を抱えてしまうのである。
 
「まぁ、それに、あっちはあっちで宜しくやってるんだろうし、今更私が帰っても邪魔になるだけでしょ?」
暫しの沈黙。その後に彼女がさりげなく話題を変える。どうやら沈黙が苦手である性質らしい。
「……ルルー……か……」
 彼は端整な顎に手をやると、いつも魔王の隣に控えている少女の姿を思い浮かべる。
 魔力は持っていないものの、キレの良い格闘技を操る彼女の機嫌を損ねてその怒りを買えば、無事では済まない事など彼の主で既に実証済みである。触らぬ神に祟りなし。そう判断するのは当然の事だろう。
「そ、ルルー。シェゾとアルルよりは落ち着いてそうだけど、なかなか如何してあの二人も酷いものよ」
「行ったのか? サタンの所へ」
 何時の間に。そんな話は聞いていなかったので少々驚く。
「えぇ、この前、ね。可愛いわよ〜、義母(おかあ)様は。一途だし、誠実だし、一生懸命だし……、もうご馳走様。って感じ?」
 言葉とは裏腹に、肩を竦めてげんなりした表情なのは恐らく、相当なバカップルぶりを見せ付けられて来たのだろう。そんな彼女に哀れみも込めて苦笑する。  
「でも、シェゾのアルルべったり度もルルー並みよね」
「うむ……。主のアルルへ対する想いが相当強いものであることは知っていたが、まさかあそこまでとは……」
 意識を彼の主へと切り替え、二人同時に感嘆の溜息を漏らす。
「もうちょっと大人になって一歩引いてくれてたら私も気が楽なんだけどね。独占欲丸出しなんだもの。こっちが一歩引かなきゃならなくなるくらいに。……時々その後頭部にビームブチまけたくなるわ!」
「おいおい……。あれは仕方ない。相当意地を張っていたようだからな。その反動で今は周りが見えていないのだ」
 ぐっと拳を握る彼女に、彼は密かに冷や汗をかいた。その様子に彼女はくすくすと笑う。
「冗談よ。今の二人、凄く幸せそうだもの。私たちが、ちゃんと見守っていてあげなきゃ、ね」
「……そうだな」
 微笑み交わす。なんやかんや言っても、互いに己らが守護すべき者達の幸福を祈っているのだ。そして彼女も彼の主を、どちらかというと気に入っているわけで。

「でも、やっぱり不満もあるのよ?」
 彼女はそう切り出した。
「殆ど毎日なんだもの。見てらんないからリビングに逃げて手乗り象と遊んでるんだけど、声、聞こえてきてさ、手乗り象に二人がなにやってるのか聞かれて困ったわ」
 腕にぴったりとくっつき上目遣いで口を尖らせる声に含まれた僅かな甘い響きに、彼は少し戸惑う。
「ま、まぁまだ子供だからな。手乗り象は……」
 思わず顔を逸らしてしまった。それが不満だったようで、彼女は余計甘えるように擦り寄ってくる。たわやな胸の膨らみを腕に押し付けて。
「なんとか手乗り象には誤魔化してるけど、それで私が平気だと思う?」
「……い、いや、それは……」
 何だか嫌な予感がする。そう思いながらも耳まで真っ赤になった横顔が、彼女の『女』を加速させるなど、彼は知は気付かない。
 金色の髪が風に揺れ、彼女の、額に埋め込まれた紅石が僅かに妖しく輝く。
「……解ってる癖に、意地悪ね。ね、カイ。たまには、いいでしょ?」
 背伸びをするように爪先立つ。
耳元で優しく、艶かしく囁かれ、彼はある種、戦慄を覚えた。
「た、たまには……っ!? この前も……したばかりだろう……っ」
「あ〜ら、そんな昔の事、忘れたわ★」
 にっこりと楽しげに、天使のような笑顔を浮かべる彼女が、彼には悪魔に見えた。
「み、三日間も拘束しておいて『忘れた』はなかろう!? あの後我がどれだけ主に……って待て! 押し倒すなっ!!」
「拘束だなんて人聞き悪いわ。貴方も愉しんでたんだから良いじゃない。……暴れないで、カイ。貴方の鎧、脱がし辛いんだから」
「脱がさんで良いから離れろ!」
「大好きよ、カイマート……」
「だっ、マテ、やめっ、他人の話を聞け! グラー……んぐっ!?」



 ……こうして、魔導世界の夜は更けていくのであった。


 結論。闇の剣もシェゾに負けず劣らず幸福で不幸で苦労人。合掌。
華車 荵
2008年06月06日(金) 16時18分21秒 公開
■この作品の著作権は華車 荵さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 かなーり昔に書いたモノを発掘したので(笑)
 珍しく一人称です。
 闇カー入シェアルですた。

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