けれど孤高は あなたとともに

 苔のような深緑色をした毛むくじゃらの魔物は、目の前に現れたきんいろのニンゲンの「お前を倒す」という言葉に、大声で笑った。
 今まで何人もの威勢のいいニンゲンがそう挑んではきたけれど、言葉どおりにこの魔物を倒せた者など、それどころか手傷の一つでも負わせられた者など、一人もいなかったから。

 ごうごうと耳障りな笑い声は、岩肌の洞窟に何度も何度も反響する。ひ弱そうなニンゲンならそれだけで腰を抜かしてへたりこんだ魔物の笑い声。けれどこのきんいろのニンゲンは黒い瞳を鋭く魔物に向かわせたまま、手の長剣を魔物へと構えた。

「これまで里の人たちを何人も食べたそうだね……勇者ラグナス・ビシャシの名において、ここで成敗してやるッ!」

 それでも魔物は笑い続けた。どうせ敵いやしないひ弱なニンゲンが必死に立ち向かおうとしている姿は、あまりにも可笑しかった。

 笑って、笑い続けて、駆け寄るニンゲンが振るった長剣の光の軌跡を止めようと腕を伸ばしたところで、魔物はその笑いを止めた。伸ばしたはずの腕がなくなってしまったから。
 代わりにもたらされたのは切り裂かれた激痛。
 一本いっぽんが鋼の針のように硬い魔物の毛皮。上級の魔族でさえも傷を負わせるには手こずるというのに、勇者を名乗るニンゲンの剣はやすやすとその毛皮を断ち、肉ごと切り飛ばしてしまったらしい。

 ありえない状況を考える時間もなく魔物は横殴りの衝撃に大きな肉体を吹き飛ばされ、転がされる。爆裂の魔法だろうか、衝撃を受けた魔物の表皮には焼け焦げの跡らしい煙がくすぶり、熱い痛みを魔物に伝える。
 それからもう一度、残された腕に行き過ぎる刃の冷たさと激痛。

 ありえない痛み、ありえない状況、ありえないもどかしさ──ありえない恐怖。

 なおも長剣の切っ先を向けてくるきんいろのニンゲンに、その存在に、魔物ははじめて恐怖というどうしようもない感情を沸き上がらせた。
 逃げようとして脚がもつれた。それでも迫り来る攻撃を、せめて防ごうと上げた腕は切り飛ばされてすでにない。

 眼前に迫る長剣の切っ先。吹き抜ける突風のように一瞬のはずの攻撃。一呼吸もすれば間違いなく訪れるだろう死を前に、魔物の意識はその一瞬を一瞬とは正反対な時の流れに認識していた。
 恐怖に彩られた恐怖、絶望にまみれた絶望に、深い深い意識の奥底に潜んでいたもうひとつの意識がぬらりと立ち上がる。

 いつしか 感じ/感じさせられた 恐怖。

 幼い子供の身体では逆らうことも逃げることもできなくて、あっさりと掴まった。にぶい輝きの長い爪、ひたりと喉をなぞって過ぎる。声が枯れるほど泣き叫ぶ子供の訴えも、妨げになどなりはしない。
 柔らかな皮膚に沈む爪は震える喉を貫き、抉る。流れた赤色の血がその喉を濡らし始めたとき、子供は何と言っただろう。耳につく甲高くうるさい声、顔中を得体のしれない体液でぐちゃぐちゃに濡れさせて。

『イタイ──イヤダ、イヤダヨ。タスケテ、タスケテ』

 心の奥、もうひとつの意識。

「イヤダ、タスケテ……タスケテ……」

 か細い声。きんいろのニンゲンの剣の動きが止まった。黒い瞳は戸惑いに揺らいで、魔物を凝視している。
 その反応に、ひっそりと魔物は笑った。
 笑いついでに自らの力を丁寧にていねいに封印しながら、もうひとつの意識を引きずり上げながら、最後に自分の意識を今だけと眠りにつかせる。

 戸惑いのまま攻撃をやめてしまったラグナスの前、魔物から姿を変えた幼い少年が気を失って倒れこんだ。柔らかそうな金の巻き毛が冷たい岩肌に広がった


* * *


 依頼は『凶悪な魔物の討伐』だった。けれど依頼は果たされず、代わりに気を失ったままの少年を連れて帰ったラグナスは、当然のことながら仲間たちの好奇の視線にさらされることになる。

 場所は魔王サタンの居城の一室。魔族の長ながら人間の庇護者でもある魔王の白亜の城は何時でも誰にでも開かれており、あるときは集会所となり、あるときは宴会場ともなる。サタン自身がお祭り好きということもあり、後者の使用法をされることはしょっちゅうだ。
 その一室の長椅子に、今は金の巻き毛の少年が横たわり、集まってきた者たちが小さな姿を見下ろしていた。

 黒衣に銀髪という見るからに一癖ありそうな出で立ちの『闇の魔導師』シェゾ・ウィグィィは、何も聞く前にラグナスへと呟いた。綺麗な青色の瞳には、何の表情もないままに。

「ついにお稚児趣味に目覚めたのか?」

 シェゾの隣に立つ(正確には彼女がシェゾを引っ張ってきた)茶色い髪に金茶の瞳の少女アルルは、その言葉にシェゾを見上げた。魔導師を目指して勉強をしているアルルだが、世間事にはちょっと疎かったりする。

「ねぇシェゾ、『オチゴシュミ』ってなに?」
「イイ歳こいた男が、女じゃなくて少年を愛でることだよ。昔は女を連れて行けない戦場なんかで──」
「ちょっとヘンタイ、アルルに妙なコト吹き込むんじゃないわよ!」

 カッ、と踵の高い靴音を響かせて、背の高い波打つ水晶色の髪の娘がアルルを庇うようにシェゾとの間に入り込んだ。強い意思を感じさせる水色の瞳を、シェゾにぐっと睨みつけて。
 彼女はルルー。富豪の家に生まれた彼女はどういう訳だか魔王サタンに恋をして、彼に気に入られようと素養がないにもかかわらず魔導師の修行を続けている。格闘術を本人曰く『少々』たしなんでおり、ラグナスの剣技とも互角らしい。つまり、魔導師の修行などしなくても充分に強いのだ、彼女は。
 シェゾは肩をすくめた。

「へーへー、おっかない女王様だ」
「んまっ、何ですってこのヘン──!」

 通常ならここでルルーお得意の舌戦が開始されたであろうシチュエーション。けれど、開かれた部屋の扉から見えた影にルルーはしおらしげに口を閉ざした。
 扉から姿を現したのは長身に緑色の長い髪、細めの整った顔立ちに赤い瞳という異貌の男だった。そのこめかみあたりには、捩じくれた2本の黄金色の角も見える。今は隠しているが、その背には蝙蝠の翼があることを、この場に居合わせる誰もが知っていた。魔王サタン、その人である。

「待たせたな、ラグナスが少年を連れ帰ってきたと聞いた。それがその子供か?」
「あぁ、例の毛むくじゃらの魔物と戦っていた最中、突然魔物が泣きながらこの姿になって、気を失って……」

 ラグナスは一部始終を簡単に説明した。彼の魔物退治はこれが初めてではない。かいつまんで里の様子と魔物のこと、その戦闘の状況を話すのに、長い時間はかからなかった。

「……わずかだが、魔物の気配が残っているな」

 長椅子に横たわる少年を見遣って、サタンが呟く。ラグナスとシェゾは眉をしかめた。『勇者』と呼ばれ魔法にも剣にも長けたラグナス、『闇の魔導師』としてあらゆる魔導を意のままに操るシェゾは、『魔』に対する感覚も優れていた。
 そんな彼らでさえ気付かなかった魔物の気配を、サタンは少年を見るなり感じ取ってしまったのだ。

「サタン、その少年をここに連れてきたのは、その子をどうすればいいか迷ったからなんだけど」

 もしもその子が魔物に捕らわれていた子供だったら、ラグナスは迷いなく依頼をしてきた里の人たちに預けただろう。けれど、この少年は魔物が変じた少年。
 何も言わずに里に置いていくには罪悪感めいたものがあったし、恐れられた「魔物だった子供だよ」なんて言って、里の人たちが受け入れるとは思えなかった。だから連れ帰ったのだ。

「『魔物の気配が残っている』なんていっても、その子は人間だろう? だと思うと、放っておくこともできなくて」

 最後に見たのは『タスケテ』と泣く子供。まるで魔物に追い詰められた人間の子供のような言動は、凶悪な魔物のものとは思えない。

「確かに、しばらく様子を見ることは必要だろうな。しかし、誰が面倒をみるというのだ?」
「僕でいいよ。手のかかる赤ん坊って訳じゃないし、弟でもできたって思うさ」
「それって『オチゴ──』」
「お止めなさい、アルル!」

 「うーん」と首を傾げたアルルをルルーが極めつける。
 苦笑するサタンの横、ラグナスはこんな騒ぎでも長椅子で目を覚まさない少年を抱え上げると、ひとしきり言い合う仲間たちに別れを告げた。


 翌日、目を覚ました少年を嬉しそうに連れ歩くラグナスの姿があった。
 金の巻き毛に深緑色の瞳の賢そうな少年は、記憶が曖昧らしく名前すらも忘れていたため、ラグナスが「僕の故郷の天使の名前さ」といってマイケルと名付けた。
 「マイケル」と呼ぶラグナスの声、そのラグナスを「お兄ちゃん」と呼ぶ少年の声は、いつしかそれが日常になっていた。


 それからひと月ほどたった頃、付近に住む人間の少女が行方不明になった。方々を探しても少女は見つからず、人々は「神隠し」だと囁きながら子供たちに用心を呼びかけた。


* * *


 魔導師養成施設、その名も『魔導学園』へと通う道すがら、アルルはホウキで空を飛ぶクラスメイトのウィッチ──魔女一族の長の末裔で見習い魔女だそうだ──から聞かされたばかりの話を「え?」と聞き返した。
 魔王サタンに守られて、平和ボケしそうなくらい平和なこの辺りには、ありえない話だったから。
 さらさらの長い金髪がご自慢のウィッチは「仕方がありませんわね」とその金髪をかき上げると、さっきの話をずいぶんと省略して話した。

「だーかーら、この頃いつも満月の夜に人が一人、いなくなっているのですわ。小さな女の子におじさんにおばあさん、老若男女関係ないみたいですわね」
「あれ、満月っていえば……」
「えぇ、今夜は満月ですわ。アルルさん、行方不明になったりしないよう、ご用心なさいませ」

 言うだけ言ってホウキの速度を上げて一足先に魔導学園へと向かうウィッチの口調は、まるで他人事だった。
 そう、彼女は非力な人間ではない。姿こそは人間の娘に似ていても、その身は魔女という魔族。中でもウィッチは頂点に近い力を誇る魔女一族の長、天空の魔女の末裔というサラブレッド。多少の事件なら、巻き込まれても何とでもなるという自信があるのだろう。

「ふぅん、行方不明……か」

 呟いて、アルルは不安を払うように首を振った。てっぺんだけ結い上げられた茶色の髪のひと房がはねる。それからアルルはすっかりと普段の表情に戻って、学園への道のりをちょっと早足に行き始めた。
 人間の娘とはいえ彼女も魔導師の卵。不安に怯えることしかできない非力な人間ではなかった。

 たとえ、この事件にほとんどの人間たちは不安に怯えていたのだとしても。


 一日、教師や生徒たちの賑やかな声がなくなる頃には、魔導学園の校舎を夕日が赤く染めていた。その赤色も徐々に深みと暗さを増して、夕暮れから夜の訪れを予告する。気の早い満月はもう姿を見せて、白っぽいまん丸が低い空に張り付いていた。
 と、人気のほとんどない校舎から出てくる二つの人影があった。
 黒っぽい衣装に銀の髪の青年と、茶色い髪に白のシャツと青いスカートという少女。魔導学園では臨時の司書として勤務するシェゾと、生徒のアルルだった。
 アルルはどうやらおカンムリなようで、金茶の瞳に精いっぱいの不満をのっけてシェゾに噛みついている。

「もぉ〜、どうしてボクがキミを待たなくちゃならないんだよ」
「お前、朝礼で校長の話を聞いてなかったのか? ここんとこ満月の夜に行方不明者が続出しているから一人で帰らんようにと、注意してただろう」
「ボクはキミに待たされたコトを怒ってるの! カーくんのご飯、買い物に行かなきゃならなかったのに遅くなっちゃうじゃないか」
「だったらおカド違いだ。文句なら、急に残業を入れた校長に言ってくれ」
「ふーんだっ」

 淡々としたまま怒りを受け止められようもないシェゾに、アルルはついに駆け出してしまった。シェゾにしてみれば、残業させられた上に文句まで言われて堪ったものじゃないが、だからと彼女を一人で帰らせるわけにもいかない。
 どんどん遠くなり、行き当たりの曲がり角に見えなくなる後姿に舌打ちして、シェゾも駆け出した。捕まえたら即座に瞬間移動の魔法を使って買い物でも家にでも送り届ければ、これ以上の文句からは解放されるだろうと思いながら。

 角を曲がれば白いシャツの少女の後姿は確認できた。

「おい待て、アル──!」

 そこで見えた異様な光景にシェゾは言葉を失った。
 アルルの前、立ち塞がるように巨体をのさばらせる毛むくじゃらの魔物。苔のような深緑色の毛皮は夕日の赤色に照らされて、黒ずんだ不気味な色に変色している。
 魔物の腕が上がった。腕の先、太い爪が夕日に照らされぎらりと輝く。

「し──シールドっ!」

 振り下ろされる魔物の腕の間際に唱えられたアルルの呪文。対象に防御力を付与して攻撃を防ぐ、一般的な魔法だ。
 呪文は間に合った。けれど強すぎる攻撃のすべては防ぎきれなかったらしい。アルルの身体は吹き飛ばされるように後に倒れこむ。
 倒れたアルルに覆いかぶさるように、魔物は追撃を繰り出そうと腕を振り上げる。

「ファイアー」
「フレイム」

 呪文詠唱のもっとも短い炎系の魔法。アルルとシェゾ、二人がそれぞれに唱えて発動させた火球と火炎は一体となって威力を増して、魔物へと襲い掛かる。
 「が、あ」と鈍いうめき声が聞こえた。

「アルルっ──大丈夫か?」
「シェゾ」

 駆け寄るシェゾにはっきりと応えたアルルに、大きな怪我はなさそうだった。シェゾは倒れたままのアルルを抱き起こすと、馴染みの得物に呼びかけた。

「闇の剣よ」
「応ッ」

 応えて、シェゾの右手には空間を越えて水晶の刀身の剣が召喚される。闇の剣──代々の闇の魔導師に闇の魔導力とともに受け継がれる、意志を持つ武器である。
 シェゾの右手に構えられた闇の剣は、水晶色の刀身をたちまち漆黒の闇色へと変える。それは、膨れあがったシェゾ自身の魔導力の影響。完全に臨戦態勢を整えたシェゾは、青色の瞳に氷のような冷たさだけを載せて魔物を見遣った。
 と、その表情にかすかな嘲笑が浮かぶ。

「なるほど、マイケルに憑いていた魔物か」
「え──シェゾ、それって」
「憑いていたのか憑かされたのか知らんが、人間の子供の姿を隠れ蓑にやりたい放題やってくれたって訳だな。魔物にしちゃぁ小賢しい」

 すぐ横のアルルに「下がっていろ」と告げて、シェゾは魔物へと踏み出した。魔物は全身を取り巻く炎を振り払ってなお立ち向かおうとする。

「だが、そんなナリなら容赦はいらんな」

 シェゾは剣を下ろして左腕を掲げた。その掌に、黒い光球が凝縮する。生きとし生けるものであれば、触れただけで身体を蝕まれてしまうという闇の魔導力。そんな闇の魔導力を術者の限界まで高めて叩きつける、これは闇の魔導師に伝えられる奥義だった。
 魔物の表情に焦りが見えた。

「アレイアード!」

 闇がうねる。目の前の獲物へと、その力を存分に振るおうと。
 防ごうと片腕を掲げた魔物はそのまま闇の力に吹き飛ばされながら呑まれ、くぐもった絶叫を辺りに響かせた。

「ふん……図体のワリには他愛ないな。トドめだ」

 行過ぎた黒い衝撃の後には倒れ伏した毛むくじゃらの魔物。シェゾは黒く染まった水晶色の刀身の剣の柄を握りなおすと、その巨体へと歩みを進めた。

 一歩、魔物の身体がびくりと震えた。
 一歩、毛むくじゃらの魔物は見るみるうちに巨体を縮め、人間の少年と変わらないほどの大きさに──そして、人間の少年の姿へと変貌した。

「…………」
「……マイケル?」

 疑問めいた呼びかけはアルル。その声へと顔を上げた金の巻き毛の少年の顔は、可哀想なくらい涙に濡れていた。

「ち、違うよ──ぼく、ぼく」

 声を詰まらせて泣き始めた少年に、シェゾとアルルは顔を見合わせた。


* * *


 初めて少年が連れてこられたときと同じ、白亜のサタンの居城。
 周囲にいるのはあのときと同じ面々。魔王サタンと勇者ラグナス、闇の魔導師シェゾと魔導師の卵の娘が二人、アルルとルルー。
 けれど、少年が座らされているのはあの時と同じ心地のいい長椅子ではなく、ありふれた椅子だった。

 取り巻く雰囲気は椅子と同じ。あのときに較べればずっと硬い。
 それもそうだろう。保護しなければならない人間の子供と信じたマイケルが、満月の夜ごとに人を襲う魔物と豹変していたというのだから。
 一時は半狂乱になりかけたマイケルはラグナスに何とか宥められ、今は落ち着いている。その様子からも、明らかなことはひとつ。

 少年のマイケルに、魔物の記憶はない。

「まさかとは思っていたが……本当だったとはな」

 魔王サタンの呟きに、誰しもが頷いていた。
 魔物が化した少年の登場、それから発生し始めた人々の失踪。関係していると、考えることは容易い。

「襲われた者は──食われたと考えるのが妥当だろうな」
「そうだね。依頼を受けた里でも、あの魔物は『人喰い』だって恐れられていたから」

 シェゾの言葉に続いたラグナスは、そう言いながらも少年マイケルの傍に寄ると、硬く握りこまれた小さな手に自分の手をそっと重ねた。「心配ないよ」と、安心させるように。
 そんな二人の様子をじっと見詰めていたアルルは、難しい顔をしたサタンに向き直ると懇願の口調で訴えた。

「でも、ボクは平気だったよ。だから……マイケル君を許してあげて」
「アルル……」
「これからだって、満月の夜には誰かが見張りについていればいいじゃない、ねぇ」

 日常となったばかりの光景。嬉しそうに走り回る金の巻き毛の少年を、微笑みの表情で見守る異界の勇者。それは、かけがえのない幸せだと思えるからこそ、守りたいとも思った。
 張り詰めてばかりの雰囲気が揺らぎそうになる。そこへ、踵の高い靴音が響き渡った。

「甘いコト言うんじゃなくてよ、アルル。許せるワケないじゃない」

 そんな、冷たい言葉と一緒に。
 ルルーは水色の瞳に親友を映しながら、なのに無表情な表情で、親友の懇願をきっぱりと撥ね付けた。

「だから、ボクは平気だって」
「アンタが平気でも、私たちが魔物化したマイケルに対抗できる『ちから』があっても──普通の人間には、そんなものないの。もう3人もの人たちが犠牲になっているでしょう!」
「でも……」
「そうやって甘い考えでその子を生かしておいたら、力のない人たちはいつまでも怯えていなくちゃならない」

 それでも「でも」と言いかけるアルルの前に立つと、ルルーはアルルの白いシャツの胸元を掴んで引き上げた。
 周囲の男たちに止めに入る余地はなかった。

「そうして、怯える人たちの感情の先は、この世界を魔族と共存させているサタン様に向かうでしょうね。きっとサタン様は恨まれるわ──『自分たちをいつ殺すかもしれない魔物をどうして野放しにするのか』」
「る、ルルー……ボクは、そんな」
「『所詮サタンは魔族の長、人間などどうでも良いんだ』『魔族と人間との共存なんてありえない』ってね。アルル──あんたは自分の我がままでサタン様を追い詰めるつもり!?」

 どさりと音がして、ルルーの手から解放されたアルルは床にへたり込んだ。

 人間たちの安らぎのために、魔物に憑かれた少年に犠牲を強要する。それは、哀しい帝王学だ。全体の幸福のために、一部にはささやかな不幸を強制する。

 秩序を守るため犯罪者には家族があろうとも断罪するように、平和を守るため兵士たちを傷つくとわかって戦場に送り込むように。
 故郷に残る恋人を想い、決死の白兵戦をためらう兵士の心は傍目には美しいのかもしれない。けれど、上に立つ者がそれを許しては、無秩序が世にあふれかえる。
 「世界全てを敵にしても、あなたが無事ならそれでいい」なんて言い放つのは、世界を守る必要のない無責任な一般人のタワゴトだ。

 王として育てられた者ならそれを知っている。知らされている。

 だから、アルルがどんなにマイケルは人間だからと命乞いをしたとしても、凶悪な魔物を抱えるマイケルは殺されなければならない。人を守り、魔族を統べる魔王サタンの命令によって。
 名家の娘として、たしなみとしてそれを学ばされていたルルーには解った。だから、ルルーは躊躇いの表情を拭いきれないサタンに叫んだ。手の届くところにいたラグナスが腰に佩いた剣を素早く抜き放ちながら。

「ならば、その少年の処罰を私にお命じください──サタン様!」

 「命じる」なんて言葉は本来、おかしい。ルルーはサタンを想うだけの人間の娘で、魔王に命令される配下の魔族ではない。でも今は、その言葉こそが正しいのだとルルーは考えていた。

 俯いてばかりだった魔王サタンは、顔を上げた。赤い瞳がルルーの水色の瞳に向き合って、一瞬、微笑みのような表情を見せた。

「剣を下ろしなさい、ルルー」
「サタン様?」
「平和を乱す異分子を排除するのは、王たる私の役目だ」
「サタン様」
「サ……サタン」

 絶望の眼差しで見詰めてくるラグナスに、サタンは王者の威厳をもって問いかけた。

「時空の狭間に閉じ込める手もあるが、幼い心では発狂するのが精々だろう。一思いに命を絶ってやったほうが、良いか?」
「待ってくれ、他に方法は……」
「……せめて、苦しまぬようにしてやろう」


* * *


 大理石の敷きつめられた広間に残されたのは、苔色をした毛むくじゃらの魔物の死体。少年マイケルの姿で処刑をしたにもかかわらず、少年の死体はそれが本性だったとでもいうように魔物のそれへと変容した。

「これで、良かったのですわ」

 ただ広い広間に二人。呟いた水晶色の髪の娘は、自分自身に言い聞かせるようにもう一度繰り返した。

「これで、良かったのですわ」
「……そうだな」

 応えたサタンに反射的に振り返ったルルーは、慌てて目元に指を滑らせた。ハンカチもない素手の指。拭いきれない涙を、それくらいで止められるはずもないのに。

「ルルー」
「見ないでくださいまし……こんな、こんな見苦しい」

 見苦しいとは、サタンは思わなかった。見苦しいのは、情に流されしなければならないことを見誤りそうになった彼自身だった。
 けれどそれは、今言うべきではないことをサタンは知っていた。それからこのままではルルーのばつが悪いだろうからと、彼は魔族には必要のないハンカチを彼女の前に差し出した。


藤宮さら
http://www007.upp.so-net.ne.jp/doze/
2007年04月15日(日) 15時01分10秒 公開
■この作品の著作権は藤宮さらさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 サタルルとしては始めての創作──ですが、私にとっての彼らは始めからこういうイメージ。
 人によって好き嫌いはあるかと思いますが、石と罵詈雑言は投げないでやってください。

この作品の感想をお寄せください。
No.1  華車 荵  評価:100点  ■2007-04-16 14:45:05  ID:/uEF9hGoIJQ
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読ませて頂きました〜。う〜ん……確かに好き嫌い分かれそうな話ですね(^^;)
大切なものを護りたいというのも美徳(こういったら軽く思えるけど;)だし、少数を犠牲にしてでも全てを護りたいっていうのも美徳だと思います。結局どれが正しいのかなんて誰にも解らないんですよね……。
皆仲良く平等に〜なんて出来ないのが世の中の難しいところだなぁと。
始めてのサタルルお疲れ様でしたm(_ _"m)
総レス数 1  合計 100

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